李淵(りえん) 人物伝 ステータス
史書によると出自は異民族鮮卑「せんぴ」系で、北魏が漢化政策(異民族の漢民族化)を進める中、李氏も漢民族を主張したというのが定説である。
北魏が分裂した後の西魏で八柱国(八人の大将軍)の一人が父であり、李氏は紛れもなくエリート層だった。
隋の時代には地方長官を歴任、煬帝の高句麗遠征では隋軍の兵站を担う。
613年の楊玄感の乱では、本拠太原にて反乱軍の進撃を阻んだ。
この時期より各地で隋王朝に対する反乱が頻発するなか、実力者と目された李淵のもとに人が集まり始めた。
周辺地域の有力者が次々と反隋の旗を掲げるなか、息子李世民の進言もあり李淵も打倒隋の旗のもと挙兵を決断する。
煬帝は江都に移動しており、この時都長安は隋の僅かな軍団と将軍が留守を守っているだけだった。
そこで都を守る名実のもと長安に進軍し、李世民の活躍もあって長安を占領した。
時同じころ煬帝が配下に暗殺される。
隋の命脈はもはないに等しい状況のなか、李淵は煬帝の孫に帝位を譲り受け、ここに隋は滅亡し「唐」が建国された。
李淵は初代皇帝高祖となる。
その後は李世民を中心として唐軍は周辺地域の群雄を次々うち倒し、支配体制を盤石なものとした。
しかし後継ぎをめぐって皇太子李建成と次男李世民の対立が激化、李淵は対策らしい対策は取らずにことの成り行きを見ているだけだった。
結果李世民が玄武門で兄と弟を亡き者とし後継者となる。
翌月に李淵は皇位を李世民にゆずり隠居、635年69歳で亡くなった。
私評
唐公 太原留守→大武皇帝
母は煬帝の母と姉妹で、李淵と煬帝は従兄弟関係にあり非常に近い親戚同士でした。
そのような関係もあり、隋末において強力な軍団を組織できたのです。
ですが李淵は決断力にかけるところがあり、挙兵や皇帝即位に際し李世民が強く李淵を後押ししました。
あまり英雄伝がない李淵ですが、政治には一定の政策を行い、律令の促進や貨幣制度を充実化しています。
李世民に帝位を譲ってからは、完全に政治から離れ穏やかに余生を過ごしたそうです。
李治(りち) 人物伝 ステータス
太宗李世民と長孫皇后の末子。
兄二人が太宗に皇太子にふさわしくないとされ、叔父で宰相でもある長孫無忌の進言で李治が皇太子となった。
649年父の太宗が亡くなると、大唐帝国三代目皇帝に即位する。
治世の前半期は国老の働きもあり、皇帝の地位を盤石なものとした。
しかし王皇后と簫淑妃「しょうしゅくひ」が高宗の寵愛をめぐり対立、そこに高宗と以前より面識があった武即天が後宮に戻って問題がさらに加速する。
その後高宗は武即天だけを愛するようになり、結果王皇后と簫淑妃は庶民におとされ、武即天が新皇后となった。
657年反旗を翻した西突厥を服従させる。
661年には朝鮮半島の南岸国家(百済)を滅亡させ、668年には高句麗も滅亡させて唐の最大版図となった。
683年に病を患い55歳で亡くなった。
私評 逸話
晋王→天皇大聖大弘孝皇帝
太宗の臨終の際には、付きっきりで看病した心優しい人物でした。
だからこそ気の強い武即天と、良くも悪くも長く付き添えたのでしょう。
太宗が決めた王皇后を、強引に庶民に落としたことを考えても、高宗の行動とはとても思えず、武即天を本気で愛したがゆえだったと思います。(なんか泣けてきます…)
結果として反武即天派だった長孫無忌や褚遂良は粛清されて、次第に武即天の天下となったことは何とも言えません。
高宗は晩年、武即天を諌める行動とっていますしね。(軽くいなされたみたいですが)