李靖 李勣 唐王朝の名将 

李靖

李靖(りせい) 七英雄 人物伝 ステータス

李靖ステータス

李靖の隋末から唐に帰順、そして中華地域統一まで


父や祖父は隋の州刺史で、李靖は571年にうまれ立派な体躯「たいく」と思慮深い知識を兼ね備えたという。

【母方の叔父に隋の天下統一に功績ある名将、韓擒虎「かんきんこ」がおり若き日の李靖はよくこの叔父と兵法論について語り合う。】


成人するとこの頃より始まった科挙(官吏登用システム)に合格し、自身も隋王朝に仕えまわりからの評価も高かった。


隋の大宰相楊素からもいずれ「私の地位に就くだろう」と言わしめたという。


しかし隋の治世が乱れ、各地で反乱が頻発する中、自身の任地にほど近い太原留守李淵も反旗をひるがえし李靖は捕らえられる。


処刑される直前、李淵の次男李世民の目にとまり助命され、以後李世民の腹心となった。


これまで隋の官僚だったが、唐において統一戦争の将軍として武功をたてていく。


まず李靖は王世充ととの戦後、蜀を平定した李淵の甥李考恭が苦戦していた異民族を粉砕し、李考恭の副官として荊州江陵の簫銑の討伐に向かう。


長江の水位が増し、江陵の守備が手薄なことを見越してあえて長江の激流のなか水軍を動かし城にせまった。


李考恭が攻めあぐねる中、李靖は簫銑「しょうせん」の隙をついて撃破して江陵城を包囲陥落させる。(ひと月あまりの電撃作戦だった)


江陵に入った李靖は民心安定につとめ善政をしき、周辺地域の豪族も次々と唐に帰順した。


翌年には長江以南の広大な地域を平定、その翌年には丹陽「たんよう」(現南京)にて反旗をひるがえした輔公祏「ほこうせき」の討伐に出陣、敵陣を読み解き正面突破で敵の水軍を壊滅させる。


同時に李靖は少数で精鋭部隊を率いて敵の城を急襲、城を攻め落とし敵将は逃亡した。


ここに唐の中華地域統一は完遂され、李淵は李靖のこの働きを大変よろこんで「古の名将に匹敵するものである」と称賛したという。


李靖の異民族との戦い


中華南部を平定したのち、李靖は都長安に凱旋するが、625年、北方異民族の突厥「とっけつ」が太原を脅かしたため李世民とともに迎撃した。


玄武門の変が起き李世民が即位すると、李靖は兵部尚書となり大唐帝国の軍事トップとして国政にも参画する。


629年突厥が自然災害にて弱体化する中、これを好機とみた太宗李世民は突厥討伐を決意し、李勣や柴昭、程知節や候君集など名だたる大唐帝国の諸将を参集、そして李靖を総司令官に抜擢し討伐軍を統率させた。


10万以上の軍勢が集結したが、李靖は精鋭騎兵3千を率いて油断していた突厥本陣を急襲し突厥軍を総崩れに追い込む。


さらに突厥の敗走を読んだ李勣が追い打ちを行い、突厥軍ははるか北方まで後退を余儀なくされた。


突厥の可汗(族長)は唐との和睦を模索したが、李靖と李勣はこれを好機ととらえ突厥軍を壊滅、李世民は天可汗に称された。


635年今度は西方の異民族吐谷渾「とよくこん」討伐戦においても老齢ながら出征を志願、西海道行軍大総菅に就任し、5人の将軍を束ねる総司令官となる。


吐谷渾軍は焦土作戦を行い、唐軍の進撃を止めようとするが李靖はここでも敵に裏をかき、すぐさま突撃を命じて吐谷渾軍を追撃し壊滅させた。


その後は国の元老となり649年、太宗李世民とほぼ時同じくして亡くなった。

李靖の評価 主な官職 逸話

大総菅(総大将)


凌煙閣24功臣の一人。


幼き頃より孫氏、呉氏の兵法を学びました。


「兵は神速を貴ぶ」を体現し、また情勢判断も的確なうえ時に冷徹な側面もあったようですが、平時においては寡黙で温厚、実直な人柄だったといいます。


宰相として国政に参画した際は、よくまわりの意見に耳を傾けておごるようなことありませんでした。


無実の罪を得て李世民に𠮟責された時も弁解せず、後日李世民が謝罪するということもあったようです。


李靖と李世民との問答集李衛公問対は、古代中国の歴史的兵法書武経七書の一つとなりました。


内容は周→唐までの名だたる名将達を、さまざまな視点で論じながら李世民の問題に李靖が答えていくものとされます。(諸葛孔明の八陣も参考にされ六花の陣にバージョンアップ)


陸上水上山岳砂漠と敵勢力の庭で負け知らず、統治においては民を安んじて安定させ、宮廷内でも人格者と讃えられてまったく欠点なかったといいます。


李靖の多大なる功績は、もはや他の追随を許さないでしょう。


武廟十哲という中国史を代表する名将十人にも選ばれて、個人的にはこの李靖こそ中華史上最強の将軍と思います。

李勣(りせき) 七英雄 人物伝 ステータス

李勣ステータス
李勣

反乱軍から統一戦 突厥軍との戦
元の名を徐世勣といい、裕福な家に生まれたが隋末の反乱軍に入った。


すぐに非凡な才能を発揮し反乱軍を先導、近くに落ち延びてきた李密軍団と合流し、李密を軍団の首領にすえた。


しかし洛陽の王世充に敗北し李密とともに、長安の李淵をたよる。

(徐世勣は自身の領地を李密に返したうえで降伏、李密の功績を上げて義をつらぬこうとした。これが李淵の耳に入り徐世勣を純臣と賛辞をおくっている。逆に李密は反抗したため処刑された。)


以後李世民配下として征討戦に従軍し統一事業に貢献。


李世民即位後は突厥の抑えとして北方に向かい都督となる。


この頃名を「李勣」と改名している。(性は唐に帰順したさい李淵よりもらい、名の世が太宗李世民と同じでは不敬だと感じたため削除。)


629年李靖の突厥討伐戦に従い、突厥軍に退路を遮断して敵将を捕えた。


太宗は二人の活躍を二李(李靖、李勣のこと)にかなうものはいないと絶賛している。

李勣の高句麗遠征と武即天時代


644年から始まった第一次高句麗遠征の総司令官に就任、自身の陸上隊に尉遅敬徳長孫無忌劉弘基、水軍都督に張亮など名だたる名将を統率、また後詰めに太宗李世民という陣容で出陣する。


しかし陸上部隊は高句麗の堅固な城に苦戦し、水軍も大敗、局地戦においては勝利したものの戦略目標の平穣「へいじょう」城には至れず、さらに高句麗の援軍も来襲し冬の到来も迫ったため撤退した。


649年太宗李世民が崩御し、新たに即位した高宗李治は、李勣の忠誠を試すため李勣を一時的に地方へ左遷しようとするが、この展開を読んだ李勣はだまって命令に従った。


これによって李勣はすぐに都に戻され宰相となる。


このころ高宗は側室の武即天を自身の皇后にしようとするが臣下たちは大反対。


そんな中李勣は姿をみせず、皇后就任を臣下に認めさせたい高宗は、国の重鎮たる李勣をたより李勣のもとにむかう。


ここで李勣は「陛下の好きになされば良いのです。」と述べたため、高宗は喜び武即天を皇后にとりたてた。


同じころ二回目の高句麗遠征も失敗した。


668年、高宗は国家の大元帥たる李勣を老齢ながら、第三回目高句麗遠征の総司令官に再度抜擢する。


高句麗も再三にわたる唐の侵攻に弱体化しており、ついに首都の平穣を攻め落として高句麗を滅亡させた。
翌669年、李勣は76歳で亡くなった。

北方の攻城戦

李勣の評価 主な官職 逸話

大総菅(総大将)


凌煙閣24功臣の一人


隋末から高句麗滅亡まで長きにわたり活躍し、李密の参謀、唐の統一戦、突厥「とっけつ」討伐、高句麗遠征、さらに武即天の皇后就任に事実上関与したり、歴史の流れに深く関わった人物として非常に高い評価です。


武即天の件は評価が分かれるところですが、私は李勣の政治的判断について情勢をつねに見極め最善をつくしているように思えますし、けっして李勣の功績をよごす判断ではないと思いますね。


また病に倒れた時太宗李世民に直接薬を作ってもらい、李勣は感激して太宗に主従関係以上の恩を感じていたそうです。

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