始皇帝と母・趙姫の確執 史実に隠された呂不韋と嫪毐の陰謀

始皇帝の母 趙姫のイメージ画像

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始皇帝(嬴政)の母である趙姫(ちょうき)は、中国史の中でも波乱の運命をたどった女性の一人です。
もともと呂不韋(りょふい)の愛人でしたが、後に秦王・荘襄王(そうじょうおう)の妻となり、始皇帝を産みました。
しかし夫の死後、彼女は新たに**嫪毐(ろうあい)**という男と関係を持ち、秦の政局を揺るがす事件へと発展していきます。

彼女と関わった呂不韋、嫪毐はどちらも野心を抱く男であり、趙姫は彼らの策略に巻き込まれました。
やがて嫪毐の反乱が起こり、始皇帝が鎮圧。
母子の関係は決裂し、趙姫は歴史の表舞台から姿を消します。

この記事では、始皇帝と母・趙姫の確執を中心に、呂不韋や嫪毐との関係、史実に隠された陰謀を詳しく解説します。

また、『コウラン伝』や『キングダム』といったフィクションと史実の違いにも触れながら、趙姫の生涯がどのように歴史に刻まれたのかを探ります。

始皇帝の母・趙姫とは?コウラン伝でも描かれた波乱の生涯

趙姫(ちょうき)の基本情報

趙姫(ちょうき)は、始皇帝(嬴政)の生母として知られる女性です。
しかし彼女の本名は史書には残されておらず、「趙姫」とは趙の国の出身であることに由来する呼称です。
彼女の人生は、権力争いに翻弄されながらも、時に自らの意思で動いた波乱に満ちたものでした。

特に、呂不韋(りょふい)との関係は彼女の運命を大きく変えた要素の一つです。
もともと彼の愛人だった趙姫は、秦の公子だった**子楚(しそ/後の荘襄王)**に献上され、秦の王族の一員となりました。
その後、子楚との間に嬴政(後の始皇帝)を産みますが、彼女の人生はそれで終わりではありませんでした。

夫・荘襄王の死後も、趙姫は宮廷で強い影響力を持ち続け、かつての恋人である呂不韋と密接な関係を維持しました。
さらに後年、彼女は新たに**嫪毐(ろうあい)**という男を寵愛し、始皇帝の怒りを買うことになります。
このような彼女の行動から、一部では「男好き」と評されることもありますが、果たしてそれは本当なのでしょうか?

ここでは趙姫の基本情報を整理しながら、彼女の生涯の重要なポイントを押さえていきます。


趙の国出身の王妃 その名は「趙姫」

趙の国出身の王妃 その名は「趙姫」

趙姫は、「趙」の国で生まれたことから、趙姫(ちょうき)と呼ばれています。
しかし、彼女の本名については史書に記録がなく詳細は不明です。
当時の秦の宮廷では、正式な王妃や側室には称号が与えられましたが、趙姫の個人名が伝わっていないことから、彼女の身分には議論の余地がありますね。

趙姫が生まれた**趙の国(現在の中国・河北省一帯)**は、戦国七雄の一つであり、秦と長年にわたって対立していました。
そのため、秦の宮廷にとって趙出身の王妃というのは異例の存在であり、彼女が後に権力争いに巻き込まれる要因の一つともなりました。

当時、戦国時代の王族や貴族の女性はしばしば政略結婚の対象とされましたが、趙姫の場合、彼女の人生を大きく変えたのは呂不韋という一人の男だったのです。


呂不韋の愛人から秦王の妃へ

趙姫はもともと、秦の商人であり政治家でもあった呂不韋の愛人でした。
呂不韋はただの商人ではなく、財力を駆使して政治の世界にも影響を与える野心家でした。
彼は秦の公子である子楚を「自分が投資すべき人物」と見定め、その地位を高めるために策を練ります。

その策の一環として、呂不韋は自らの愛人であった趙姫を子楚に献上しました。
この出来事について、『史記』では次のようなエピソードが語られています。

呂不韋は趙姫を手放すことを惜しみつつも、より大きな利益のために彼女を子楚に与えた。

この「利益のために女性を利用する」という発想は、当時の戦国時代の政治において珍しいものではありません。
しかしこの関係が後に始皇帝の出生へとつながったことを考えると、趙姫の運命はここからすでに定められていたのかもしれません。

子楚は趙姫を妃として迎え、彼女との間に生まれたのが**嬴政(えいせい/後の始皇帝)**です。
このことから、一部では「始皇帝の本当の父親は呂不韋なのではないか?」という疑惑も語られます。


「男好き」と呼ばれた理由は? 呂不韋・嫪毐との関係

趙姫は夫・荘襄王が亡くなった後も、宮廷で影響力を維持し続けました。
特に、かつての愛人であり宰相となった呂不韋とは密接な関係を続けていたといわれています。

しかし、彼女の人生が再び大きく揺らぐのは、**嫪毐(ろうあい)**という男との関係が始まった時です。

嫪毐はもともと低い身分の男でしたが、「巨根の男」として噂されていました。
呂不韋は、自身と趙姫の関係が問題視されることを恐れ、宦官(去勢されたふりをした男)として彼女のそばに送り込んだとされています。

しかし趙姫と嫪毐の関係は深まり、二人の間には子どもが生まれたともいわれます。
このような背景から、趙姫は「男好き」という評価を受けることがあるのです。

ただし当時の宮廷政治では、権力者の女性が新たな男性と関係を持つことは決して珍しいことではありませんでした。
むしろ趙姫は宮廷内での自身の立場を守るために、呂不韋、嫪毐との関係を利用していた可能性もあるのです。

「コウラン伝」や「キングダム」などでの描かれ方

趙姫は史実では「戦国時代の権力闘争に翻弄された女性」として記録されていますが、近年のフィクション作品では異なる視点で描かれることが多くなっています。
特に**中国のドラマ『コウラン伝』や日本の漫画『キングダム』**では、彼女のキャラクター像に違いが見られます。

ここでは、それぞれの作品における趙姫の描かれ方を詳しく見ていきましょう。


ドラマ『コウラン伝』における趙姫の姿

『コウラン伝』は2019年に放送された中国の歴史ドラマで、主人公である李皓鑭(りこうらん)=趙姫の視点から物語が進みます。
この作品では趙姫は単なる「権力に翻弄された女性」ではなく、知性と意志の強さを持った女性として描かれました。

ドラマの中での趙姫(李皓鑭)の特徴は以下の通りです。

  • 趙国の名家の娘として育つが、父の死後に母とともに冷遇される。
  • 呂不韋と手を組み、秦国へ行く決断を下す。
  • 策略と知恵で宮廷を生き抜く女性として描かれる。
  • 嫪毐との関係は情愛というよりも生存戦略の一環とされる。

特に呂不韋との関係は史実とは少し異なり、ドラマでは「政治的なパートナー」としての側面が強調されています。

このように、『コウラン伝』では、趙姫は運命に流されるだけの女性ではなく、時代の中で自ら道を切り開く存在として描かれています。


『キングダム』では直接登場せずとも影響を与えた存在

日本の人気漫画『キングダム』では、趙姫は直接的には登場しませんが、彼女の存在が嬴政(始皇帝)や呂不韋の物語に大きく関わっています。

作中では嬴政の幼少期のエピソードとして、「趙国で人質として苦難の時代を過ごしたこと」が描かれています。趙姫自身の詳細な描写はないものの、彼女が秦王の妃となる以前は趙の宮廷で過ごしていたことや、嬴政の出生に呂不韋が関わっている可能性が言及されました。

また呂不韋の野心が嬴政の運命に影響を与えていたことが作中で強調されており、結果的に趙姫の存在も重要な背景の一部となっています。

「呂不韋と趙姫の策略」

秦の大商人であり、後に秦の宰相となる**呂不韋(りょふい)**

秦の大商人であり、後に秦の宰相となる**呂不韋(りょふい)**は、冷静な計算のもとに政界での影響力を広げていました。
彼の最大の「投資」とも言われるのが、後の秦王・**荘襄王(そうじょうおう)=子楚(しそ)への支援です。
そして、その策略の中で趙姫(ちょうき)**が重要な役割を担うことになります。

当時、子楚は趙の都・邯鄲(かんたん)で人質として暮らしていました。
秦王家の一員でありながら、王位継承権は低く、未来は不透明でした。
そんな彼に目をつけたのが呂不韋です。
呂不韋は「子楚を王にすることで、自らも秦の権力を掌握できる」と考え、あらゆる手を尽くし始めるのです。


邯鄲の一室──呂不韋と趙姫の密談

邯鄲の一室──呂不韋と趙姫の密談

(灯火の揺れる室内。呂不韋は机に手をつき、趙姫をじっと見つめていた。)

呂不韋:「趙姫、お前は美しい。だが、それだけではない。お前には生き抜く知恵がある。だから、私の言うことをよく聞け」

趙姫:「随分と真剣な顔をしているわね。今度は何を企んでいるの?」

呂不韋:「子楚(しそ)を王にする」

趙姫:「……王に? あの人質の?」

呂不韋:「そうだ。今の秦王・孝文王の嫡子は安国君。だが、安国君には子が二十人以上いる。その中で誰が後継ぐか、まだ定まっていない。つまり、子楚にもチャンスがある

趙姫:「でも、今は趙の都で幽閉同然の身。そんな人がどうやって王になれるの?」

呂不韋:「だからこそ、私が”仕掛ける”のさ。そのために、お前が必要なんだ」

(呂不韋は杯を持ち上げ、趙姫に向ける。)

呂不韋:「お前は、子楚の妃になる。そして、子を産むのだ。秦王の孫を宿した女となれば、誰もお前を無視できない」

(趙姫は驚いた顔を見せるが、すぐに笑う。)

趙姫:「面白いわね。でも、それがどうしてあなたの得になるの?」

呂不韋:「お前が産んだ子が秦王となれば、私の影響力は絶大になる。私の”投資”は、秦の未来にまで及ぶのさ」

趙姫:「あなたは恐ろしい人ね。でも……私はどうなるの?」

呂不韋:「お前もまた王の母となる。贅沢も権力も、全て手に入れられる」

(趙姫はしばらく沈黙する。炎が静かに揺れる。)

趙姫:「……いいわ。あなたの賭けに乗る」

呂不韋:「決まりだな。子楚には私が話をつける。お前はただ、美しく、賢く振る舞えばいい」


趙姫と子楚の関係 呂不韋の野望

その後、呂不韋は子楚に接触し、趙姫を妃として迎えるよう説得します。
子楚にとっては、呂不韋の後ろ盾を得ることは政治的に大きな意味を持つため、彼はこの提案を受け入れます。

子楚:「呂不韋、お前の言う通りにしよう。趙姫を正妃とする」

そして趙姫と子楚は結ばれ、やがて一人の男の子が生まれます。

その子の名は嬴政(えいせい)──後の始皇帝でした。

趙姫が嬴政を産んだことで、呂不韋の計画は次の段階へ進みます。
彼は莫大な財を投じて秦の王族たちに取り入り、ついに子楚を秦王・荘襄王として即位させることに成功しました。

その影には常に、呂不韋の策略と趙姫の存在があったのです。

史実における趙姫の生涯と呂不韋・嫪毐(ろうあい)事件

呂不韋との関係:彼女は愛人だったのか、それとも策略の一環か?

趙姫(ちょうき)と呂不韋(りょふい)の関係は、単なる愛人関係ではなく、戦国時代の権力闘争の中で生まれた戦略的な結びつきだったと考えられています。
彼女は呂不韋の愛人でありながら、彼の政治的計算のもとで**秦の王子・子楚(しそ/後の荘襄王)**に献上され、秦王妃となりました。

この章では呂不韋がどのように趙姫を利用し、その後の彼女との関係がどのように変化したのかを詳しく見ていきます。


秦王妃となった趙姫 呂不韋の策略とは?

呂不韋は商人でありながら、政治的野心を持ち、国家レベルの「投資」を行っていました。

呂不韋は商人でありながら、政治的野心を持ち、国家レベルの「投資」を行っていました。
彼が目をつけたのが、秦の王子でありながら趙の都・邯鄲(かんたん)で人質として暮らしていた**子楚(しそ)**です。

子楚の王位継承順位は低かったものの、呂不韋は「彼を秦王にすれば自らも権力を掌握できる」と考え、巨額の財産を投じて彼を支援しました。
そしてその計画の一環として、自らの愛人であった趙姫を子楚に献上します。

趙姫が子楚の正妃となった後、二人の間には**嬴政(えいせい/後の始皇帝)**が生まれました。
嬴政の誕生により、子楚の秦王としての地位はより確実なものとなり、呂不韋の計画は着実に進展していきます。

その後、呂不韋はさらに莫大な財を投じて秦国内の有力者たちに働きかけ、ついに子楚を秦王・荘襄王として即位させることに成功。
この時点で、呂不韋は秦国の実質的な宰相となり、国政を操る立場に立ったのです。

しかし、荘襄王は在位わずか3年で急死します。
これにより、まだ13歳だった嬴政が王位を継ぐことになりました。
幼い王に代わり呂不韋が政治を取り仕切ることになり、趙姫の立場も大きく変化していきます。


荘襄王の死後 呂不韋と趙姫の関係は続いたのか?

荘襄王の死後、呂不韋は引き続き宰相として秦の政務を掌握し実質的な最高権力者となりました。
そして、この時期にも呂不韋と趙姫の関係は続いていた可能性があるとされています。

『史記』には、趙姫と呂不韋が荘襄王の死後も密かに関係を持っていたと記録されており、これが事実であれば、趙姫にとって呂不韋は単なる「かつての恋人」ではなく、「政治的なパートナー」でもあったと考えられます。

しかし嬴政が成長するにつれ、この関係は宮廷内でも問題視されるようになりました。
呂不韋自身も、趙姫との関係を続けることが自分の立場を危うくする可能性があると認識し始めます。

そこで呂不韋が考えたのが、嫪毐(ろうあい)という男を宦官として趙姫のそばに送り込むという策略でした。これにより、呂不韋は自らの手を汚さずに趙姫との関係を清算し、政治的リスクを回避しようとしたのです。

嫪毐との関係:彼女は愛に生きたのか、それとも政治の犠牲者か?

嫪毐を送り込んだ呂不韋の策略

荘襄王(そうじょうおう)の死後、趙姫(ちょうき)は太后として宮廷に君臨しましたが、彼女の権力は呂不韋(りょふい)の影響下にありました。

一方、呂不韋は始皇帝(嬴政)が成長するにつれ、趙姫との関係を清算する必要を感じるようになります。
そこで彼は、嫪毐(ろうあい)という男を「宦官(去勢されたふりをした男)」として宮廷に送り込み、趙姫の「慰み者」とさせるという策略を講じました。

しかし嫪毐は単なる道具では終わらず、やがて野心を抱き王になろうとするまでになります。


嫪毐を送り込んだ呂不韋の策略

呂不韋が嫪毐に目をつけたのは、彼が「巨根の男」として有名だったことが一因でした。
呂不韋は嫪毐を宦官として仕立て上げ、太后である趙姫のそばに仕えることを命じます。

嫪毐は実際には去勢されておらず、趙姫と関係を持ち、彼女の「慰み者」として扱われるようになったと伝えられています。
そしてその関係の中で、趙姫は嫪毐との間に二人の子をもうけたとも言われています。

当初、嫪毐は呂不韋の意図通り、ただの太后の寵愛を受ける存在でした。
しかし、次第に彼は単なる「慰み者」でいることに満足できなくなり、自らの力を誇示しようとし始めます。

嫪毐は自らの一派を形成し、やがて「この国の王になることもできるのではないか」と考えるようになります。その野心の始まりは、彼と趙姫の密会の中で見え隠れしていました。


「嫪毐との密会」野心を抱き始めた男

(始皇帝がまだ若い頃、夜の宮廷にて──)

(暗がりの中、嫪毐が宮廷の裏口からそっと入り、太后のもとへ向かう。)

嫪毐:「太后様……今宵もお会いできて嬉しく存じます」

趙姫:「静かに、誰かに聞かれたら……」

(嫪毐は趙姫のそばに座りながら、彼女の手をそっと取る。)

嫪毐:「御身を案じるあまり、私はこのまま”影”でいたいとは思えなくなりました」

趙姫:「何を言うの! あなたは決して、表に立つ男ではないのよ……」

嫪毐:「ですが、太后様。私にはあなたとの間に二人の子がいます。その子たちは秦の血を引くのですぞ……!」

(趙姫の表情がわずかに曇る。)

趙姫:「それを口にしてはならないわ。あなたと私の関係は、誰にも知られてはならない……」

嫪毐:「ですが、このままでは私は”影”のままです! いつか、王の父として、この国に名を残すこともできるのではないかと……」

(趙姫は眉をひそめ、嫪毐を睨む。)

趙姫:「あなたは何も分かっていない。私は……私はただ、守られたかっただけなのよ。愛などではなく……!」

嫪毐:「……太后様は、私を愛しておらぬのですか?」

(趙姫は何も言わず、ただ夜の闇を見つめた。)


趙姫の選択:愛か、生存か?

嫪毐との関係は単なる密会の域を超え、彼の野心を生み出す結果となってしまいました。
彼は自らの立場を利用し、ついには王になろうと企てるようになります。

趙姫にとって嫪毐との関係は愛情だったのか、それとも単なる生存のための手段だったのか──。
これは歴史の中でも意見が分かれる部分です。

  • 愛に生きた女性説
    • 夫を失い呂不韋にも見放された彼女は、嫪毐に純粋な愛を求めた可能性がある。
    • 彼女が嫪毐の子を産んだという記録が事実ならば、深い信頼を寄せていたと考えられる。
  • 政治の犠牲者説
    • 実際は呂不韋に利用され、結果的に嫪毐をも利用するしかなかった。
    • 彼女の関係が露見すれば、宮廷での立場を失いかねない状況だった。

この問いに対する明確な答えは、歴史の記録には残されていません。
しかし、嫪毐との関係が彼女の運命をさらに狂わせていくのは間違いありませんでした。

嫪毐の反乱と始皇帝との確執

始皇帝の冷徹な決断

嫪毐(ろうあい)は、太后・趙姫(ちょうき)の寵愛を受け、宮廷での影響力を強めていきました。
しかし彼はそれに満足せず、ついには王位を狙うようになります。

彼の野心は次第に膨らみ、ついにクーデター(嫪毐の乱)を決行するに至ります。
しかし、この企ては始皇帝(嬴政)によって速やかに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑に処されました。

さらに嫪毐と趙姫の関係が露見したことで、趙姫もまた秦宮廷から廃され、幽閉されることになりました。
この事件は、始皇帝と母の関係に決定的な亀裂を生じさせたのです。

ここでは嫪毐の乱の経緯、始皇帝の冷徹な決断、そして母と子の断絶について詳しく見ていきます。


嫪毐の乱 クーデターの結末

嫪毐は太后の寵愛を背景に宮廷内で勢力を拡大し、自らを王にするという野望を抱くようになりました。
彼のもとには、密かに結託する者たちが集まり、ついに宮廷を掌握しようと動き出します。

嫪毐の計画

  • 始皇帝がまだ若年であり、完全に国を掌握していないことを利用しようとした。
  • 自分の子が秦王の血を引くことを根拠に、王位を狙った。
  • 地方の駐屯軍を動員し、クーデターを画策した。

しかし始皇帝の側近たちがこの陰謀を察知し、すぐに反撃を開始します。
嫪毐は軍を率いて宮廷を襲撃しようとしましたが、秦の正規軍には敵わず、わずか数日のうちに鎮圧されました。

嫪毐は捕らえられ、秦の法に従って**「車裂きの刑」**に処されます。
これは手足を馬に結びつけ、四方向へ引き裂くという極めて残酷な刑罰でした。

彼の処刑は宮廷内に恐怖を与え、始皇帝の強権的な姿勢を鮮明にする出来事となるのです。


母の失脚と幽閉

嫪毐の乱によって、趙姫と嫪毐の関係が宮廷内で公になりました。
太后としての立場は失墜し、始皇帝は彼女の処分を決断します。

趙姫の罪状は以下の通りでした。

  • 王族以外の男と密通したこと
  • 王の血を引くとされる子を産んだこと
  • その愛人がクーデターを起こしたこと

これらの理由により、趙姫は王宮から追放され、幽閉されることになりました。

**幽閉の地は「雍城(ようじょう)」**とされており、これは当時の秦の王族が隠退する場所でした。
彼女はそこで余生を送ることになり、始皇帝との親子関係は完全に断絶したのです。


「嫪毐の乱と始皇帝との対決」母と子の決裂

「嫪毐の乱と始皇帝との対決」始皇帝と趙姫の決裂

(嫪毐の乱が鎮圧された後、宮廷の広間にて──)

(始皇帝は玉座に座り、跪く趙姫を見下ろしている。)

始皇帝:「……母上、何か言うことは?」

趙姫:「私は、ただ……あなたを守りたかったのよ」

始皇帝:「守る? 何をだ? 嫪毐をそばに置き、私を危険にさらしたのが”守る”ことだと?」

(趙姫は涙を滲ませるが、すぐに睨み返す。)

趙姫:「私は孤独だった。お前には分からないでしょう……」

始皇帝:「ならば、孤独を埋めるために、国家を乱したのか?」

(始皇帝は冷たく言い放つ。)

始皇帝:「嫪毐は処刑された。だが、問題はそれだけではない。母上はもはや、王家の者ではない

趙姫:「……!」

(趙姫は愕然とし、息を呑む。)

始皇帝:「あなたは、私の母ではなくなったのだ。今日より、雍城へ向かえ。二度と宮廷に戻ることは許さぬ

(趙姫は呆然としながらも、すぐに悟ったように微笑む。)

趙姫:「……あなたは父親に似ているわ」

始皇帝:「私は父など知らぬ。私を育てたのは、この国の苦難だけだ」

(始皇帝は趙姫に背を向け、広間を去る。残された趙姫は、その場に静かに崩れ落ちた──。)

趙姫の最期

嫪毐(ろうあい)の乱の後、始皇帝(嬴政)によって幽閉された趙姫は、その後どうなったのか。

彼女の最期については、明確な史料が少なく53歳で亡くなったとされるものの、その死因については意見が分かれています。
一説では幽閉先で自然死したとされ、別の説では始皇帝の命によって処刑された可能性も示唆されています。

彼女がどのように最期を迎えたにせよ、かつて秦王妃として華やかな宮廷にいた彼女が、晩年を孤独の中で過ごしたことは間違いないでしょう。

ここでは趙姫の最期と、彼女が人生を振り返る様子を再現しながら描きます。


孤独の幽閉生活

趙姫の孤独な幽閉生活

嫪毐の乱の後、趙姫は**秦の旧都・雍城(ようじょう)**に幽閉されました。
雍城はかつて秦王家の墓所がある場所であり、彼女にとっては「死を待つ場所」でもありました。

秦宮廷の華やかさとは無縁の、ひっそりとした邸宅での生活。
宮廷のしきたりから解放されたものの、それは自由ではなく閉じ込められた静寂でした。

幽閉後の趙姫の生活は、記録にはほとんど残っていません。
身の回りの世話をする者はいたとされるものの、かつての権勢を振るった彼女の周囲には、もはや誰も寄り添う者はいなかったでしょう。


迫る死と回想

(雍城の静かな夜──)

冷え切った部屋の中、灯火の揺れる光の下で趙姫は一人、薄布をまといながら寝台に座っていた。

手には昔、呂不韋から贈られた小さな翡翠の飾がある。それを撫でながら、彼女は静かに目を閉じた。

「私は何だったのか……」

幼少の頃、趙の国で貴族の娘として生まれたこと。
呂不韋の愛人だったこと。
子楚(しそ)に献上され、秦王妃となったこと。
そして、始皇帝を産んだこと。

その一つ一つを思い返す。

「私は、ただの駒だったのか……」

呂不韋にとって、私は権力への道具だった。
子楚にとって、私は王妃としての義務を果たす存在だった。
始皇帝にとって、私は母でありながら、ついには邪魔な存在となった。

「ならば……私は、いったい誰だったの?」

目を閉じると、かつての若き日の自分が浮かび上がる。

華やかな宮廷。
子楚と共に過ごした日々。
嬴政を産み、抱きしめたあの瞬間。

そして、嫪毐の温かな手の感触。

「私は……愛されていたのかしら……?」

どこか遠くで、始皇帝の幼い頃の声が聞こえる。

「母上、ぼくを抱っこして!」

あの頃の嬴政は、小さく、弱く、母の温もりを求めていた。

しかし今や彼は冷徹な王となり、私をここに追いやった。

「私が間違っていたのか? それとも……」

ふと、灯火が揺れる。
趙姫は、翡翠の飾りを握りしめたまま、静かに目を閉じた。

結論:始皇帝と母・趙姫の確執 史実が語る親子の決裂

趙姫の生涯と評価

趙姫(ちょうき)は、戦国時代の権力争いの中で翻弄された女性でした。
もともと呂不韋(りょふい)の愛人でありながら、彼の策略によって秦の王子・子楚(しそ/後の荘襄王)に献上され、王妃となりました。
その後、彼女が産んだ嬴政(えいせい)が秦王となり、始皇帝として天下統一を果たします。

しかし夫・荘襄王の死後、呂不韋との関係を清算するために送り込まれた嫪毐(ろうあい)との密通が彼女の運命を大きく変えました。
嫪毐は権力を持とうとクーデターを起こしますが、始皇帝によって鎮圧され、趙姫は太后の地位を剥奪され、幽閉されました。

彼女の最期については諸説ありますが、53歳で亡くなったとされ、病死したとも、始皇帝の命で処刑されたとも言われています。

趙姫の人生は、王妃としての栄華と、母としての悲劇の両面を持つ波乱の生涯でした。
彼女は戦国時代の権力闘争の駒として利用され、最後は息子である始皇帝によって切り捨てられました。
この母子の確執は始皇帝が情を捨て、法と秩序を優先する冷徹な支配者へと変わる重要な要因となったと考えられます。

彼女はただの「男好きの女性」だったのか、それとも「戦国時代の犠牲者」だったのか──。
その評価は、今も歴史の中で議論され続けているのです。

参考リンク チャンネル銀河コウラン伝あらすじ テレビアニメ「キングダム」公式サイト

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