目次
第一話 江都にて

江都の空は、まるで何も知らぬ顔をしていた。
春の終わりを告げる風が湖面をなで、宮殿の紅い簾をやわらかく揺らしている。
その静けさの中に、誰もが口にしない不穏な気配が、確かに息づいていた。
蕭月蓮は、一人、庭の池に佇んでいた。
白磁のように透き通る横顔が、水面にぼんやりと映る。
彼女は、隋の皇后・蕭氏の血を引く者。
幼き日より宮中で学び、礼と文を修め、皇后の侍女として育てられた。
そして今、煬帝の江南行幸に付き従い、都から遠く離れたこの地にいる。
「蕭皇后様…」
月蓮はそっと、胸元に忍ばせていた小さな香袋を指先でなぞる。
それはかつて皇后が、月蓮の十五の誕辰に贈ってくれたものだった。
時が流れても、香の残り香は失われていない。だが、あの頃の隋は、もう戻ってこない。
煬帝はまだ、自らの栄光に酔っていた。
だが月蓮は気づいていた。
この江都の繁華に、もう“帝国の鼓動”は響いていないことを。
輝きは薄れ、花は散り、そして朝(あした)は来ない。
湖の向こうで、遠く鐘の音が響いた。
宴が始まる合図か、それとも――何かが終わる合図か。
月蓮はそっと目を閉じ、風に舞う薄紅の花びらにひとしずく、涙を落とした。
第二話 月はまだ沈まず

江都の地に春が過ぎ去り、静けさが不気味に広がっていた。
宮廷はまだ装飾に満ちていたが、人々の足音は軽やかではなく、酒宴の笑い声さえ虚ろに響いている。
蕭月蓮は、遠くに見える楼閣の灯を見つめながら、胸の奥に広がるざわめきと向き合っていた。
煬帝の宴に呼ばれたが、その瞳にはもはや帝王の光はない。
疲れきったように盃を傾け、絶えず過去の栄光を口にする姿に、月蓮は心のどこかで悟っていた。
「もう、この国は、戻らないのだわ――」
その夜、月蓮は夢を見た。
朧月の下、湖に浮かぶ蕾がゆっくりと沈んでゆく夢。
目を覚ますと、遠くで火の手が上がっている。
「……まさか」
それは思ったよりも早く、そしてあっけない。
宇文化及の兵が宮城に乱入し、忠臣たちは次々と討たれ煬帝も凶刃に倒れる。
隋はその命脈を絶たれたのだった。
月蓮は宮女の衣を脱ぎ捨て、護衛の一団とともに江都を離れた。
しかし道中で兵に囲まれ、彼女はたった一人、混乱の中に取り残される。
…だが、奇跡のようにその命を繋ぐ。
捕らえられた月蓮は、敵将の一人に身分を知られず、ただ「教養ある女性」として長安へと送られた。
護送の理由は不明だったが、月蓮には心にひとつの目的があった。
――長安に残された、蕭一族の安否を確かめること。
そして、かつてこの地を治めた「蕭皇后」の記憶に、最後の別れを告げること。
長安、すでに唐のものとなった都。
その大路は整然とし、兵士たちの顔には安定の兆しが浮かんでいた。
しかしかつての煩雑で、混乱した隋の都とはどこか違う。
やがて彼女は、唐の高官に引き合わされることとなる。
「そなたに話を聞きたいという方がいる。どうか、身構えずに」
そう案内された先、雅な日差しが差し込む宮の広間に立っていたのは――
漆黒の髪を束ね、深い青の衣に身を包んだ、ひとりの若き武人だった。
「そなたが、蕭月蓮殿か」
彼の声は、驚くほど静かだった。
だが、その眼差しには炎のような意志が宿っている。
「……そう名乗るべき者が、ここにいるならば」
月蓮はまっすぐにその男を見据えた。
彼が誰かを知ることは難しくなかった。
彼こそが、唐の皇子――李世民。
「蕭氏の血筋にして、隋の皇后に仕えたあなたが、なぜ今この場に?」
問いに答えることは容易だった。だが月蓮は、あえて黙す。
すると李世民は、わずかに笑みを浮かべて、
「敵とは、刀を交えるよりも、言葉を交わすほうが難しいな」
その言葉に、月蓮の胸に何かが揺れた。
それは怒りでも屈辱でもなく、ただひとつ――不思議な共鳴。
「私は隋に仕えた者。そして今も、その誇りは手放しておりません。
ですが……。
あの方――蕭皇后様が、今どこで何を想っておられるのか。
それは、もはや誰にも分かりません。
けれど……
もしもこの国を照らす光が、あの方の願いに通じるものならば――
私は、それを完全には否定できないのです」
李世民は、じっと彼女の言葉を受け止めた。
そして、ふと遠くを見つめながらつぶやく。
「ならば、そなたの目で見るがいい。
我が目指すこの唐の政(まつりごと)を、国を、未来を」
静かに、春の風が宮の中を通り抜けていく。
二人は何も言わない。ただ、月だけが、沈まずに空にあるのだった。
第三話 暁の対話

朝の空がまだ白む前、李世民の書斎には灯火が揺れている。
硯に向かうその姿は、文官とは思えぬ静謐さと、将軍らしい鋭さを同時にまとっていた。
その部屋の隅で、月蓮は静かに立っていた。
唐の記録官――そう呼ばれはしたが、名簿にも籍にも載らない“影の見聞役”。
彼女に命じられたのは、意見を述べること。ただそれだけ。
「書くことは苦手だが、口なら回る」
李世民は苦笑しながら言った。
「そなたのような目を持つ者が、私の側に一人くらいいてもよいだろう」
それが彼なりの任命の言葉だった。
その日もまた、政務を終えた後、二人は短い対話の時間を持っていた。
窓の外、長安の城郭が朝靄に霞んで見える。
人々は目覚め、炊き出しの香がかすかに風に運ばれてくる。
「唐は、よく民を見ておられるようですね」
月蓮がぽつりと口にした。
「そなたのような者にそう言われるのは、悪くない」
李世民は筆を止め、墨を払いながら、
「民が望むのは、贅を尽くした都でも、威光に満ちた帝でもない。
腹が満ち、災いがなく、子が明日を生きられること。それだけだ」
その言葉に、月蓮の心はわずかに揺れた。
「それは……かつて蕭皇后が語っていた言葉と、よく似ております」
李世民は少し驚いたように彼女を見た。
そして、すぐに目を伏せたまま、静かに言う。
「ならば、私の道も、あの方に恥じぬものにせねばな」
その声音には、どこか脆さが混じっていた。
月蓮は一歩、踏み出し、
「おひとりではありません。民が支え、家臣が支え、そして――ご家族も」
李世民は一瞬、動きを止めた。
「家族、か」
その言葉の背後に、何か重たいものが落ちる気配を月蓮は感じた。
「兄・建成殿とは、少しお考えが異なるとお聞きしました」
「……ああ。兄は兄、私は私だ」
それだけを言い、李世民は立ち上がった。
陽が、すこしずつ部屋に差し込む。
「私は、まだ道の途中にいる。
だがその先に、隋でも成せなかったものがあるなら、必ず掴み取ってみせる」
その背に、月蓮は言い知れぬ孤独を感じた。
けれどその孤独は、どこかで彼女自身の姿とも重なる。
「そなたのような者が、私を見ている――」
李世民はふいに振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。
「それが、悪くないと思えてきた」
月蓮は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。
その胸の奥、何かがわずかにほどけてゆくのを、彼女は感じていた。
外では、鳥が朝を告げている。
だが、二人の間には、まだ暁の光は差していなかった。
第四話 玄武門の朝

その夜、風はないが、月蓮は空気が張り詰めているのを感じていた。
灯火の揺れる書斎で、李世民は黙々と筆を走らせる。
だが、その動きにはいつもの迷いなき気迫はなく、筆先が何度も止まりかけていた。
「殿下……今日は、随分と、遅くまで政務を」
そう口にしても、返ってくるのは静かな沈黙。
李世民は、ふいに硯を離れ、窓辺に立つ。
その背に、月蓮は言い知れぬ“重さ”を見た。
「兄は…私の道を、決して許さぬだろう」
絞り出すような声だ。
「殿下……まさか……」
「明日の朝、私は……選ばねばならぬ」
「この国を――唐を導くために、何を捨て、何を守るのかを」
その言葉に、月蓮の胸が締めつけられた。
それは、政のために剣を取る覚悟。
血縁よりも、国を選ぶという決断。
玄武門の朝は、静寂の中に始まる。
だが、門が開かれた瞬間、矢が飛び交い、叫びが響いた。
「李建成殿、討ち取られた!」
兵の声が都に木霊する。
月蓮は何も言えず、ただ空を見上げた。
空は、夜を脱ぎ捨てるように、白み始めるのだった。
数刻後――
勝者となった李世民が、血に染まらぬ衣をまとい、玉座の前に立つ。
周囲には誰もいなかった。
ただ一人、月蓮が静かに近づく。
その背は、先ほどの硯の前と同じく、静かで、ただ深く重かった。
月蓮は言葉を探した。
祝福でも、慰めでもない、
この瞬間にふさわしい、ただひとつの言葉を。
やがて彼女は、胸元にしまっていた小さな香袋を手にし、両手で差し出した。
「これは…かつて蕭皇后様より賜ったもの。
私にとって隋の記憶、誇り、願いの象徴でした」
李世民は振り返る。
その瞳に、勝者の光はなかった。
あるのは、ただひとつ――傷ついた決意。
「私は、この袋を手放すことはないと思っていました。
けれど、今……この国を導こうとするお姿に、
かつてのあの方の理想が、ほんの少し重なったように感じたのです」
月蓮は静かに微笑んだ。
それは祝福でも、許しでもない。
「どうか――この国を、導いてください。
かつて私たちが、手に入れられなかった未来へ」
李世民は、何も言わない。
ただ、両手で香袋を受け取り、深く頷く。
外の空は、もう白みきっていた。
だがその朝の光は、これまでのどの朝とも、違っていた。
第五話 風を越えて

唐の宮廷は、日を追うごとに静まり返っていた。
血の朝を越えて数か月。
李世民は、帝としての器を問われる存在となった。
重臣たちは彼を支え、敵対していた者たちも次第に沈黙をゆるめ恭順をしめす。
だがその中で、月蓮は彼とほとんど顔を合わせることがなくなる。
かつて共に灯火の前にあった時間は、まるで夢のように遠ざかっていた。
彼女は記録係の端に名を置かれたまま、政務の片隅に身を置いた。
言葉を交わすことなく、ただ遠くから彼の背を見つめる。
それで十分だ。
いや、そう思おうとしていただけかもしれない。
ある日の暮れ方、月蓮のもとにひとつの文が届く。
唐の印が押された、簡素な封。
「これより私は、帝として歩む。
そなたがくれたものが、我が心を支えている。
かつての隋の志が、唐に流れているのなら、
それは私の誇りでもある。」
それは、別れの文だった。
祝詞でも、命令でもない。
ただ、心からの言葉だけが綴られていた。
月蓮は文を胸に、しばらく目を閉じた。
あの夜、香袋を渡したときの李世民の瞳――
それは力強く、そして深い孤独の中にある強い決意。
翌朝、月蓮は唐の都を離れた。
名も告げず、護衛もつけず、ただ一人で。
かつて隋の民が歩いた道を辿るように北へと。
髪を結い、簡素な衣に着替えたその姿は、もう“皇女”ではなかった。
それでも、胸には確かなものが残っていた。
隋が目指した理想、蕭皇后の教え、そして李世民の願い。
それらは、月蓮の中で確かに結び合っている。
その後、月蓮の名が歴史に記されることはない。
だが、とある村には「都から来た物静かな女先生」がいたという記録が残っている。
彼女は子らに文字を教え、歴史を語り、やがて“知の人”として敬われた。
その教えには、こんな言葉があったという。
「国は移ろえど、願いは遺せる。
それを繋ぐのが人であり、言葉なのです」
風が、やんでいた。
小さな寺の境内で、月蓮は筆を置き、そっと空を見上げた。
朝の陽が昇りはじめる。
その光は、かつて見た長安の空と、どこかでつながっていた。
「あの人は、唐の皇帝となった。
私は、隋の願いを抱きながら、生きる者となった。
けれど――
私たちは、同じ空を見ていたのだと、今も信じている」
【完】