最後の楚姫 ― 虞憐花は月を見ていた

最後の楚姫 ― 虞憐花は月を見ていた

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序章:垓下の夜、命を繋ぐ影

序章:垓下の夜、命を繋ぐ影

風が鳴いている。
それは楚の国土が最後に流す嗚咽のようでもあり、地に伏した将たちの魂が天に昇る足音のようでもあった。
垓下──楚の最期の砦は、すでに漢軍の包囲の中にあった。

「漢軍が…、四方より迫っております!」
兵士の叫びが空を裂く。
すでに軍勢は崩れ、楚の大王・項羽の周囲には、わずかな忠臣しか残っていなかった。

その喧騒の外れ、壊れた幕舎の陰に、ひとりの少女が身を潜めていた。
まだ十七にも満たぬその若き身に、楚の香りをまとった衣が巻かれている。
名を虞憐花(ぐ・れんか)。
かの名高き虞姫の、血を分けた妹である。

「姉上…」

彼女は震える指で、腰に巻かれた細布を握りしめた。
それは虞姫が最後に手渡してくれたもので、かすかに香が残っていた。
その香の奥に、笑顔が浮かぶ。
どこか寂しげで、でも確かに強かった姉の面差し。

──楚の王に殉ずる、それがわたしの誇りです。
そう言って、姉は自ら命を絶った。

その瞬間、憐花の胸の中に何かが音を立てて崩れた。
誇りよりも、忠義よりも、もっと原初的な感情。
それは怒りと悔しさ、そして深い深い喪失だった。

あの夜、項羽は逃れ、再び戦うと言っていた。
だが憐花には分かっていた。
もう、楚は終わるのだと。
だからこそ、逃げねばならない。
命を繋ぎ、楚の記憶をたった一人でも残すために。

彼女は夜の帳に紛れ、戦場の裏手へと身を滑らせた。
地面には血が滲み、倒れた兵の呻きが風に混ざっている。
敵も味方もない。
命の重さは、もはや区別されていなかった。

「……生き延びて、どうするの?」

憐花は、自問した。
楚が滅んでも、虞が絶えても、自分ひとりが生き延びて何になるというのか。
だが、答えは出なかった。
ただ姉の仇を討たねばという思いが、胸を焼いていた。

「劉邦…」
その名を口にすると、声は怒りにかすれた。
姉を死に追いやり、楚を滅ぼし、項羽を打ち砕いた男。
その男を、許してはならぬ。

涙をこらえ、血に染まった道を進む。
月は冷たく、あまりにも遠かった。
だがその夜、楚の国にただ一人、命を繋いだ少女がいたことを、歴史は知らない。

その名は虞憐花。
楚が滅んだ夜に、復讐の火を胸に抱いた花が、ひとつ静かに咲くのだった。

第二章:炎のごとく、心に灯る復讐

第二章:炎のごとく、心に灯る復讐

人知れず楚の地を離れた憐花は、行くあてもなく、ただひたすらに歩いた。
残された道は北か西か。
だが彼女の心はどこへ向かっても同じだ。
すべてが灰色に見え、風の匂いさえ、あの日の血の香りを思い出させる。

楚が滅んだのは、項羽が敗れたからではない。
劉邦が、天下を手に入れたからだ。

憐花の胸には、燃えさしのような怒りがくすぶり続けている。
姉は楚の王に仕えた。
それが宿命であるならば、自分には楚に仇なす者を討つという別の宿命があるのではないか──
そう思うことで、辛うじて己を保っていた。

「姉上は…最期まで、誇り高かった……」

崖の上、焚き火の前でそう呟いた夜。
その火が風に揺れるたび、憐花の影もまた揺れていた。
あたかもそれが姉の残像であるかのように。


数ヶ月が経った。
憐花は易姓を使い、名もなき旅人として流浪の生活を送る。

彼女は賢く、動きも早い。
男の装束に身を包み、剣の稽古に励む日々。
かつて楚宮で身に付けた礼儀作法は消え、代わりに剣と毒と密偵の技がその身に染みついてゆく。

各地を巡り、漢軍の動向を探り、情報を集めた。
漢帝国はすでに成立しつつあり、劉邦は天下の主となっていた。
張良、韓信、蕭何――彼の名を支える名将たちもまた、歴史の表舞台にその姿を刻んでいる。

だが憐花にとって、それはどこか薄気味悪い光景だ。
まるで楚が最初から存在しなかったかのように、人々は新たな秩序を受け入れていた。

「忘れたのか……姉の歌声を。楚の旗を。あの夜の悲しみを……」

泣いたことはない。
涙はとっくに干上がっていた。
ただ、その代わりに彼女の心には鋭利な刃が一本、確かに生えるのだった。

それは復讐の刃。
どこかで機を伺い、劉邦を討ち、楚の名誉を取り戻す。
それだけが、彼女をこの世界につなぎ止めていた。


ある日、関中の地、長安近郊にて。
憐花は漢の都に潜り込む手立てを得た。
農家に身を寄せていた老兵が、かつて楚にいたという。
彼の紹介で、宮中の膳部に仕える女たちの間に、雑用係として潜り込むことに成功する。

誰も彼女が虞姫の妹であるとは気づかない。
慎ましく、だが鋭い瞳で周囲を観察しながら、劉邦への道を探った。

その男は、思っていたよりも人間らしかった。
憤怒をあらわにし、笑い、家臣に罵声を飛ばし、酒を好む。
だが、なぜか人が離れぬ。
不思議な魅力――それが、あの男にはあった。

「……あんな者が、姉を……」

複雑な感情が、憐花の胸に広がっていく。
憎しみはある、だがそれだけでは語れない。
張良、蕭何、樊噲……名だたる将たちが、彼のもとで一つにまとまっているのはなぜか。

答えを知るため、憐花はさらに深く、劉邦の世界に足を踏み入れる。

それは、彼女の刃が初めて揺らぐ前触れだった。

第三章:邂逅と接触

第三章:邂逅と接触

長安の都は、日々、音を変えていった。
太鼓の音、商人の声、役人の掛け声。
それらが入り混じる中で、憐花は漢帝国の胎動を肌で感じていた。

都は広く、楚の都よりも整然としていた。
だがどこか無機質で、冷たく感じたのは、憐花が「この都を愛してはいけない」と、自らの心に壁を作っていたからかもしれない。

憐花は膳部から宮中の文書管理を行う部署に異動となった。
静かに、だが信頼を得るよう動いた彼女に、漢の官僚たちは警戒を解いていった。
そして、ついにある日、彼女の運命を揺るがす人物との出会いが訪れる。

その名は張良。
漢帝国の謀臣、そして劉邦の片腕と称される男だった。

「あなたが虞憐花殿か」

張良の第一声は、どこか柔らかくも鋭さを含んでいた。
小柄で儚げな外見だが、その瞳は人の奥を見通すようだった。

「どうして、私の名を」

「楚の香があなたには残っている。たとえ名を偽ろうと、その姿は隠せぬものだ」

憐花は驚いた。
潜伏には万全を期していたつもりだった。声も仕草も、楚の言葉を控え、慎ましく振る舞っていたはずなのに。

「殺すのか、それとも――劉邦に引き渡すのか」

静かな声で憐花が言った。

張良は微かに首を横に振った。

「いや。私はただ、話がしたい」

「話?」

「君の怒りの矛先が、どこへ向かっているのか。それを、知りたかった」

その一言で、憐花の中に長く閉じ込めていたものが、静かに動き出した。
言葉では説明しきれぬ、複雑な感情。
憎しみと、哀しみと、そして微かな――興味。

「私は、姉を漢に殺された。虞姫は、楚のために死んだ。あなたたちは、その楚を滅ぼした」

「それは否定しない」

張良は即座に認めた。

「だが君は知っているか?楚の項羽は、多くの人間をその剛腕で殺してきた。劉邦の妻さえも捕らえられ、処刑されかけた」

「それでも、楚は…誇りある国だった」

「誇りだけで国は守れぬ。民の命も救えぬ。君の姉は、確かに高潔だった。だが、彼女の死は誰のためだったのだろう」

憐花は言葉に詰まった。

張良は続けた。

「我らは、秩序を築こうとしている。流れる血の連鎖を断ち切るために。君がその中で、何を見つけるかは君の自由だ。だが、復讐の刃は、己の心を蝕むだけだと、私は思う」

しばらく沈黙が流れた。
憐花は、張良の言葉をすぐには受け入れられなかった。
だが彼の声には、空虚な正義ではなく、何かもっと深い、人としての思慮が込められていた。

「……私はまだ、あなたたちを許せない。でも、話は聞いてみたくなった」

それが、二人の初めての対話だった。

そこには剣も毒もなかった。
ただ、人と人との言葉だけがあった。

その夜、憐花は久しぶりに夢を見た。
姉の笑顔と、楚の旗。そして、燃える都の中に、見知らぬ若き帝の姿があった。

次第にその夢の中で、旗の色が楚の紫から、漢の赤へと滲んでいく。
それは不吉な兆しか、それとも――

目覚めた憐花の頬には、一滴の涙が残っていた。

第四章:心の変化

第四章:心の変化

漢の都・長安に春が訪れる。
氷が解け、城門の前に並ぶ柳が芽吹き始めると、街の空気にもどこか柔らかさが戻ってきた。
だが憐花の胸の奥は、まだ冬のまま。

張良と出会ってからというもの、彼女はたびたび呼び出され、政治や軍略の話を聞かされるようになった。
一見すれば、下働きの女に語るような内容ではない。
だが張良は意図的に語っていた。
彼女に「見せる」のではなく、「見させる」ために。

「漢はまだ出来たばかりの国だ。土台は脆く、人も野心に満ちている。だが、それでも民のために何ができるかを考えねば、ただの簒奪者で終わる」

張良の言葉には、冷徹さの中に真実があった。
憐花はそれを聞きながら、かつての楚にはなかった「言葉の重さ」を感じ始めていた。

楚は誇り高く美しく、だがどこか夢の中の国のよう。
項羽の力は絶大でありながら、その影に怯える者も少なくなかった。
それに比べて、漢は粗野で混沌としている。
だが、そこに生きる人々に「明日を信じる力」を感じる。

ある日、張良の取り計らいで、憐花は劉邦の私的な宴席の給仕を任されることになった。

そこにいた男は、彼女が思い描いていた“仇敵”とは、まるで違う姿をしていた。

無骨で酒好き、言葉も粗い。
しかし、家臣たちへの目配せには温かみがあり、失敗した者を怒鳴った直後に、ふっと笑って杯を差し出す。

「おまえのような者が、生きてる時代が好きだ」と、劉邦は言った。
「刀を振り回すばかりじゃ、国は治まらん。女でも子どもでも、良き考えを持っていれば、それを聞くのが王の器ってもんだ」

それは、項羽にはなかった言葉だ。

誇りではなく、柔らかさと許しの余地。
理想ではなく、現実を受け入れた上での道。

戸惑いが、憐花の胸を占めていく。

あれほど復讐を誓ったはずの男が、なぜか、自分を滅ぼした者とは思えなくなっていく。
そう思うたび、姉の面影が遠ざかる気がして、怖くなる。

「私は…いったい、何をしているのだろう…」

夜の帳の中、一人つぶやく声は弱々しく、彼女自身をも驚かせた。
だが、心の奥では知っていた。
誰かを憎み続けることでしか保てなかった自分の存在が、今、少しずつ崩れかけていることを。

張良は、そんな憐花の変化を静かに見守っていた。

「君が何を選ぶのか、それは誰にも決められぬ。ただ、どちらに進むにしても、君の姉は誇りに思うだろう」

その言葉が、なぜか胸に染みる。

憐花はかつての剣を研ぐようにして、憎しみに心をゆだねようとする。
だが今、手の中には刃ではなく、迷いが残されていた。

春の風が吹き抜ける。
まだ冷たさを残したその風に、憐花はそっと目を閉じた。

もしかすると、自分が望んでいたものは、姉の仇を討つことではなかったのかもしれない。
楚の誇りを守ることでもなかったのかもしれない。

ただ、誰かのように、真っ直ぐに生きてみたかっただけなのかもしれないと――

第五章:終幕

第五章:終幕

初夏の長安は、眩しいほどに明るい。
市場の喧騒、城壁に咲き乱れる野の花、白い衣を翻す学徒たちの姿。
一年前には想像もできなかった日々が、今の憐花の目の前に広がっていた。

だが彼女の心には、なおも深い影が落ちていた。

張良との対話、劉邦の素顔、そして漢の人々の営み。
それらを目の当たりにする中で、憐花の復讐心は静かに形を変えていく。
それは忘却ではなく、理解。
否定ではなく、受容。

だが、その変化こそが、彼女には一番怖かった。

自分は、姉の仇を許そうとしているのではないか。
それは、姉を裏切ることではないのか。

迷いの底で揺れる心は、何よりも重く自身に降り注ぐ。

そんなある日、張良が静かに彼女に言った。

「君は、もう十分に苦しんだ。楚の名を背負い、姉のために剣を研ぎ、復讐のために命を使おうとした。それは、誰にも真似できぬ強さだ」

「でも私は、何も成せていません。ただ、逃げて、生き延びて、彷徨っただけ」

「成すとは何だ?人を殺すことか?国を奪うことか? それとも、誰かの遺志を継ぎ、別の道を選ぶことか」

張良の言葉に、憐花は言葉を失った。

「君の姉、虞姫は潔く楚と項羽と共に散った。だが、君は君の道を歩けばいい。生き残った者にしか、できぬことがある」

それは、初めて姉と別の道を歩むことを許された気がした瞬間だった。

その夜、憐花は書をしたためる。
それは誰に宛てるでもなく、己の心を結ぶ言葉だった。

楚の名はすでに過去のもの。
だが楚の気高さは、自分の中に息づいている。
それを、漢の世の中でどう咲かせるかは、自分の生き方次第なのだと。

そして翌朝、彼女はかつて虞姫から渡された布を取り出し、静かに焚いた。

ふわりと舞い上がる香。
記憶が煙となり、空に溶けていくようだった。

憐花は涙を流さなかった。
もう、それは必要ないからだ。


数年後、漢帝国は安定へと向かい、劉邦は皇帝としての威を固めている。
張良は政治の場から離れ、隠棲の道を選ぶ。
都には新たな才媛が現れ、詩や書の才を持つ者として名を馳せていた。

彼女の名は記録に残らない。
だが、その文章には不思議な静けさと強さが宿り、人々の心を打った。

ある者は言う。
その詩の中には、楚の哀しみと漢の希望が共に描かれていると。
ある者は気づく。
その筆致には、戦場を越えてなお咲こうとする、ある一輪の花の意志があると。

月夜、都の外れの小高い丘にて。
ひとりの女が静かに空を見上げていた。

髪は緩く結われ、衣は淡い青。
その手には香袋が握られていた。
かつて姉と共に過ごした、遠き楚の日々の記憶。
だが、もうそれは過去ではなく今を支える根となっていた。

「姉上――私は、まだ生きています」

そう口にして、彼女は微かに笑った。

それは哀しみの微笑ではない。
希望の始まりの微笑だ。

そして、月明かりの下、彼女は静かに歩き出した。
風に揺れる野の花が、彼女の名を呼んだ気がする。

その名は、虞憐花。

楚の名を背にし、漢の世に生きた、もうひとつの花の名である。

【完】

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