目次
第一章 戦神の影

かつて、中華にその名を轟かせた将がいた。
白起――秦の「戦神」。
彼の軍が動けば、敵は恐れおののき、地は血に染まり、そして勝利は約束される。
だがその傍らに、誰も知らぬ一人の男がいた。
名を、司隠(し・いん)という。
戦場で剣を取ることはなく、王の前で声を上げることもない。
ただ一人、白起の耳元に言葉をささやく、その影の如き存在。
私は、その男だった。
白起と初めて出会ったのは、まだ私が秦に仕官して間もない頃。
若き日の彼は、既に将としての才を見せ始めていた。
私はいかなる偶然か、彼の軍に配され、軍略の補佐を命じられたのだった。
「司隠、と申すか」
軍議の席、白起は静かに私を見る。
その眼は、鋭さの奥に、どこか憂いを帯びていた。
「戦において、何を重んじる?」
問われ、私は即座に答える。
「理、でございます。情に流されれば、勝つべき戦も敗れましょう。勝利とは、血と理の積み重ねにございますれば。」
白起はわずかに目を細めた。
微笑とも、苦笑ともつかぬその表情を、私は忘れない。
「――その理とやら、試させてもらおう」
初陣は、魏との小競り合い。
白起の指揮は見事で、敵軍は翻弄され、あっという間に退けられた。
私はその戦の最中、白起の“異質さ”に気づいた。
彼は、決して無駄な血を好まない。
勝ちを急がず、敵が降れば、極力命を奪おうとはしなかった。
戦の後、私は彼に尋ねる。
「将軍。なぜ、敵将を逃がされたのですか?」
「……殺す必要はない。勝てばよい。」
その言葉には、理ではなく、情があった。
私は口をつぐんだが、心の奥に疑念が残った。
情に揺れる将は、いずれ道を誤る。
その時から、私は白起の“理”を守るために在ると、心に決めたのだった。
白起は勝ち続ける。
彼の剣は鋭く、策は冴え、敵を討つたびに名声は高まった。
だがその影で、私は常に彼に“理”を説いた。
「将軍。戦には慈悲は不要。敵を討つこと、それが最も兵を救う道でございます。」
白起は時に黙し、時に小さく頷く。
彼は戦神と呼ばれたが、その心は、戦の神には遠かった。
そして、私は気づき始めていたのだ。
白起は勝ち続ける限り、己を失ってゆく。
ならば、私が導かねばならぬ。
勝利の先にある“理”を示し、彼を守るために。
その時、まだ私は知らなかった。
私の“理”が、やがて歴史に残る血の海を呼ぶことを――。
第二章 勝利の代償

白起は勝利を重ねる。
魏を、韓を、楚を討ち、秦の版図は日ごとに広がっていく。
戦神の名は敵将の心胆を寒からしめ、戦わずして降る者すら現れるようになった。
だが、それは決して偶然ではない。
白起の剣の裏に、私の“理”があった。
「司隠、どう思う?」
戦の前、白起は必ず私の意見を求めた。
彼は勝利の道を熟知していたが、それでもなお、私に耳を傾ける。
「敵将は必ず動きます。策をめぐらせ、逃げ道を断つべきです。そして、降れば容赦なく――首を刎ねましょう。」
「……降った者を、殺すのか?」
「はい。降伏は策、戦いを避けるための方便。再び牙を剥く者どもに、情をかけてはなりません。」
白起はしばし沈黙し、そして静かに頷いた。
「――分かった。」
この頃から、白起は私の“理”を信じ始めていた。
戦の規模が大きくなり、敵の数が増すほどに、非情な決断が求められる。
私は冷静だった。
勝つために、守るために、そして未来のために。
犠牲は必要だ、と。
白起もまた、戦の先にある秦の覇道を意識していた。
だが、心の奥では、常に何かを問い続けていたように思う。
ある夜、戦の合間。
白起は私を呼び、酒を傾けながらこう言った。
「司隠、お前は何を信じている?」
「理です。将軍。」
「……理か。だが、戦で命を落とすのは、皆、理を知らぬ者たちだ。家族を守ろうとする者も、ただ生き延びたいだけの者も、皆、死ぬ。」
「理とは、彼らを超えるもの。将軍、あなたは勝つことで、多くの命を救っているのです。」
「……それでも、時々思うのだ。
本当に、これが正しいのかとな。」
私はその言葉に、一瞬、言葉を失った。
「正しい、のではなく、“必要”なのです。
将軍、情を捨てよ。でなければ、勝てません。」
白起は酒をあおり、空を見上げる。
「必要、か。ならば……」
その戦も、我々は勝利した。
敵将は討たれ、兵は壊滅。秦の名は、さらに中原に響き渡った。
だが、白起の目は、日ごとに曇りを帯びていく。
私の“理”が彼の心から、かつての“情”を削り取っていくのを私は感じたのだった。
私は、それで良いと思っていた。
白起が非情になればなるほど、秦は強くなる。
彼の心など、いずれ歴史が救ってくれる。
だがそれは甘えだった。
私はまだ見ていなかった。
勝利の代償が、いかに重く、いかに深いものかを。
そして、その時が迫っていた――
長平。すべてを変える、あの戦が。
第三章 長平の決断

戦神・白起の名は、ついに中華を震撼させる。
魏も韓も楚も、彼の剣に屈し、秦の覇業は誰も止められぬものとなりつつある。
だが、なお一国、頑強に抗う者たちがいた。
趙――中原の雄、列国の牙城。
その将、趙括は兵を率い、秦の進軍を阻まんとする。
長平。
それは白起にとって、そして私にとって試練の地であった。
「司隠、どう思う?」
白起は戦を前に、私を呼び寄せた。
「趙括は、戦を知らぬ男。策を巡らせ、兵を長引かせれば、必ず隙を見せましょう。」
私は冷静に言い放った。
「長平を落とせば、中原は秦のもの。
将軍、ここが正念場にございます。」
白起はふっと笑う。
「……お前はいつも、理を忘れぬな。」
「理こそが、勝利を導くものです。」
戦は、私の予見通りに進んだ。
趙括は無策で、兵を無駄に動かし、補給を絶たれて徐々に追い詰められていく。
白起の包囲の妙が光り、ついに趙軍は壊滅寸前に追い込まれた。
降伏。
趙軍の兵、四十万。
彼らは武器を捨て、命乞いをする。
そしてその時、私は白起のもとに進み出た。
「将軍。今こそ、決断の時です。」
白起は沈黙したまま、降る趙兵を見下ろす。
「……あれほどの兵を、どうするつもりだ、司隠。」
「生かせば、再び敵となりましょう。彼らを生かすことは、次の戦を呼ぶ。今、ここで断てば、秦に未来が開けます。」
「……殺せと、申すか。」
「はい。情けは、国を滅ぼします。ここで情に流されれば、将軍、あなたは敗者となる。」
白起は目を閉じた。
その姿は、まるで静かに壊れていく像のようだ。
「……分かった。」
それだけを彼は言った。
その夜、私は兵に命じ穴を掘らせた。
果てしなく、深く、広く。
そこに、趙の兵を――四十万を、生き埋めにするために。
「司隠……私は、本当にこれで良いのか……?」
白起の声はかすれている。
「これが、理です。将軍。非情を貫いた者だけが、歴史に名を残す。」
「……名を、残すためか。」
「秦のためです。そして、あなたのために。」
生き埋めは、三日三晩続いた。
秦の兵たちは黙々と穴を掘り、捕虜たちは泣き叫び土に沈められていく。
私は見届けた。
己の言葉が、この光景を生んだのだと。
白起は、何も語らなかった。
ただ、じっと空を見ていた。
戦は終わった。
趙は壊滅し、秦の勝利は決定的となる。
だが私は知っている。
この勝利の代償が、どれほど重いかを。
白起はそれ以降、笑わなくなった。
彼の眼は、戦神のものではない。
私の理が、白起を壊した。
だがこれは必要なことだ。
私はそう信じている。
いや、信じるしかないのかもしれない。
第四章 勝者の孤独

長平の戦いが終わった後、白起の名は再び中原を震わせる。
だがもはや人々の声には、かつての敬意ではなく、恐れと怯えが混じってる。
「戦神」ではなく――**“鬼神”**として。
白起自身もまた、その重みを誰よりも感じていた。
彼は勝った。
確かに勝った。
だがその胸に残ったものは、誇りでも歓喜でもない。
ある日の夕刻、誰もいない幕舎の中で、白起は酒を手に私を待っていた。
私は黙ってその対面に座ると、白起は呟く。
「司隠……あの時、お前が言った“理”。あれは、正しかったのか?」
私は答えを即せず、ただ静かに杯を持つ。
「正しい、などと申すつもりはありません。ですが、必要でした。あの四十万を生かせば、趙は再び立ち上がったでしょう。」
「それでも……彼らは、武器を捨てたのだ。命を乞う者を、殺すべきではなかったのかもしれぬ。」
「では、将軍は彼らを生かし、再び戦場で我らの兵が討たれる未来を望まれますか?」
白起は返事をしない。
ただ目を伏せたまま、酒を口に運び続るのだった。
その後も、白起は戦場に立つことを拒まなかった。
だがその瞳からは確かに、かつての光が消えている。
民の声はざわめき、朝廷では彼の“過ぎた力”を危ぶむ声が上がっていた。
私はそれを知ってる。
だが、白起にそれを伝えることはできなかった。
彼は既に、勝者でありながら、孤独な敗者となっていたのだから。
ある晩、私が幕舎を訪ねると、白起はひとり、火を見つめていた。
「司隠、私は……“勝ちすぎた”のだろうか。」
その声には、疲れと悔いと、言葉にできぬ思いが滲んでいた。
「勝ちすぎたのではなく、“正しすぎた”のです。将軍、あなたの選択は、歴史が証明します。」
白起は首を振った。
「歴史が証明する……?だが、それを語る者は、お前だけだ。」
私は言葉を失う。
その通りだった。
白起の名は、秦の勝利の裏に刻まれる。
しかしその内面を知る者など、私しかいない。
私が、“理”を説かなければ――。
だが違う。
彼が非情を選ばねば、秦はこの地を制することはできなかった。
そして私は彼のために、理を差し出したのだ。
なのに、なぜ。
この胸の奥は、こんなにも重く、冷たいのか。
その後、白起は戦の命を受けることなく長安に呼び戻され、やがて謀反の疑いをかけられ、自ら命を絶つこととなる。
朝廷の意向だった。
“勝ちすぎた者”は、いずれ国にとっての脅威となる――それが、政治というものなのかもしれない。
私は彼に会えなかった。
最後の言葉すら、交わせなかったのだ。
だが、白起の死を知った日、私は一人、かつての戦場を訪れた。
かつて、四十万の兵を葬った、あの長平の丘へ。
静かな風が吹いていた。
誰もいない、ただ草が揺れているだけの丘に私は座り込む。
「……将軍、私は、間違っていたのでしょうか。」
当然、答えは返ってこない。
勝者が辿った孤独の果てに、理を選んだ者の沈黙が残された。
だがそれでも私は、あの言葉を信じるしかなかった。
「理は、国を救う。たとえ、それが誰かを壊すとしても。」
第五章 理の果てに

白起は死んだ。
謀反の嫌疑をかけられ、剣を仰いで自らの首を断ったとされる。
その死を、私は長安の片隅で知らされた。
胸に風が吹き抜けたようだった。
言葉は出ず、涙も出ず、ただ空がひどく遠く見える。
私は何もできなかった。
いや、何もしなかったのかもしれない。
理を説き、勝利を選び、情を断ち切らせて――その末に、彼は消えたのだ。
数月後、私はふたたび長平を訪れた。
あの戦場の丘は、季節の移ろいを受けて草に覆われている。
かつて、血と涙と土が混ざり合った地。
私はそこに膝をつき、ひとつ、白起に語りかけた。
「将軍……私は、あなたを導いたつもりでいました。けれど、あの時、あなたを守っていたのは、私ではなく……あなた自身の、迷いだったのかもしれません。」
風は草を揺らすだけ。
かつて私は、“理”こそが正しいと信じていた。
情は国を滅ぼす、迷いは兵を殺す、非情こそ勝利への唯一の道だと。
白起はその理を受け入れ、そして自らを沈めた。
私は、彼の勝利を支えたつもりだ。
だが、彼の魂までも救えたかと言えば――否だ。
「人は、何をもって正義とするのか」
「戦において、情は無価値なのか」
「四十万の命を葬る“理”に、果たして未来はあったのか」
その問いは、いまも胸の内に燃えている。
私は筆を取ることにした。
将軍・白起のことを、この手で記すために。
それは英雄譚ではなく、血に濡れた真実の記録である。
人々は、白起を“鬼神”と呼んだ。
その剣は冷たく、その戦は苛烈だった。
だが私は知っている。
あの人は、ただ、誰よりも国を思っただけの人だった。
勝利のために、理を選び。
国の未来のために、情を捨てた。
それが、どれほど苦しい決断だったかを。
そして、あの孤独が、どれほど深かったかを。
人は語る。
白起は冷酷だった、と。
だが、私だけは知っている。
彼は、理に従っただけだった。
――私の、理に。
いまも私は問うている。
あの決断に、理はあったのか。情はなかったのか。
答えは、いまだ出ない。
だが、出す必要もないのかもしれない。
なぜなら――
その問いを抱き続けることこそが、私の罪であり、贖いだからだ。
司隠の物語は、ここで終わる。
だが白起の名は、永遠に歴史のなかに刻まれ続ける。
理の果てに残された、静かな問いとともに。
― 完 ―