理に生き、忠に殉ず――魏の明帝とその継承

魏王朝の後継者 曹寧

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第一章「甦る帝」

第一章「甦る帝」

建業三年――西暦二四二年。

この年、魏の皇帝・曹叡は病に伏し、重臣の多くがすでに“次”を見据えはじめていた。
幼い皇太子・曹芳への政権移譲を巡り、朝廷は緩やかに混沌へと傾きつつあるなか。

そんな折、洛陽の朝堂に、誰も予期せぬ影が現れた。

白い装束に身を包み、毅然とした歩調で玉座へと進むその男を、人々は息を呑んで見つめる。
魏の帝――曹叡が、甦ったのだ。

声を上げる者はいない。
ただひとつの低く澄んだ声が、静かに大殿に響いた。

「我が命は、まだ尽きぬ」

そして、その声を聞いた男の眉がわずかに動いた。
司馬懿。
魏の重鎮にして、軍政の要を担う老臣である。

彼の目に浮かんだのは驚きではない。
それは深い安堵、そして…ひとしずくの敬意だった。

夕暮れ、薄明かりの書斎には二つの影があった。

ひとつは病を乗り越えたばかりの帝、もうひとつは若き少年、曹寧
皇帝の実子にして、未来の魏を託されし者である。

「父上……もう、本当にご無事なのですね」

少年の問いかけに、曹叡はゆるやかに頷いた。

「天は、まだ我らを見捨ててはおらぬようだ。寧、お前に見せたいものがある」

彼は机の奥から、一巻の巻物を取り出す。
それはかすれた墨の詩文。
甄氏――曹叡の母が、かつて綴った言葉だった。

「これが……祖母上の詩文……」

「そうだ。母は静かな人だった。多くを語らずとも、その理と節度は剣より鋭かった」

曹叡は目を伏せた。
幼い記憶の断片が、今も胸に刻まれている。

「“治める者は、威より理をもって民を導くべし”――それが母の言葉だ。寧よ、これを心に刻め」

少年は巻物を胸に抱き、深く頭を垂れる。

「父上の志と、祖母の理を、必ず継ぎます」

その夜、司馬懿は書院にこもっていた。

ひとり静かに筆を走らせ、報告文を綴る。
そこには、曹叡復帰の報とともに、彼自身の心情もにじんでいた。

(あの御方が戻られた。それだけで、この国は再び秩序を得る)

彼は、曹操、曹丕、そして曹叡の三代に仕えてきた。
その中でも、曹叡にはひときわ深い敬意を抱いている。
理を知り、才を活かし、人を見誤らぬ主。
だからこそ、命が尽きると聞かされたとき、胸の奥に、言いようのない空虚が生まれたのだ。

だが今、空虚は消えた。

「……我が忠、未だ尽きず」

司馬懿は筆を置き、静かに灯を消した。

夜はまだ深く、魏の未来はこれから始まる。

第二章「二つの忠誠」

第二章「二つの忠誠」

曹叡の復帰から十日。
洛陽の朝廷は、久しぶりに落ち着いた空気を取り戻していた。
かつて死にかけた皇帝が政務に戻った――その事実だけで、群臣の心には静かな緊張と敬意が生まれている。

だが、風はまた動き始めていた。

蜀――劉禅の政権が、漢中方面で軍を動かしたとの報が届く。
名目は辺境の警備と称しているが、その動きは魏への“試し”と見るべきものであった。

この日、曹叡は書斎にて、司馬懿と対面していた。

「仲達。再びそなたに頼みたい」

そう語った曹叡の目は、もはや病の影を残していない。
むしろ、復活の王としての覚悟が宿っていた。

「漢中の動きか。蜀はまだ、我らを試そうとしている」

司馬懿は落ち着いた口調で答える。

「すでに諸将は長安の守備を再確認しております。私が赴くことで、敵も不用意には動けますまい」

「その通りだ。――そなたの名は、すでに“魏の守り”そのもの」

曹叡は言葉を切り、少しだけ間を置いた。

「公孫淵を討ったあの戦、余は寝床の中でそなたの凱旋を聞いた。誇らしかった。曹魏の威を天下に示す戦いだったといえよう」

司馬懿はわずかに目を伏せる。

「陛下の信があったからこそ、私は剣を抜けたのです」

「ならば、もう一度その剣を取ってくれ。だが今度は、守りの剣だ。魏を、そして寧を守ってくれ」

その言葉に司馬懿は膝をつく。

「命に代えても」

静かだった。
だがその短い誓いの中に、三代に仕えてきた男のすべてが込められている。

その夜、曹叡は皇子・曹寧とともに灯を囲んでいた。

「寧。そなたは“忠”とは何だと思うか?」

唐突な問いに少年は少し考えたあと。

「…正しきもののために、己を捨てること、でしょうか」

「うむ。ならば、“正しきもの”とは?」

「理――そして、人の心です」

曹叡は笑った。
それは帝としてではなく、ひとりの父としての笑みだった。

「司馬仲達も、そなたの祖母も、そして余も。その“理”を信じて生きている。だが、理は剣より脆い。だからこそ、己の心で守らねばならぬ」

「はい。心に剣を」

少年は胸に手を置き、深く頷く。

数日後、司馬懿は長安へと旅立った。
洛陽の空は雲ひとつなく、冬の朝日が静かに照っている。

「仲達よ――寧を、頼む」

そう声をかけた曹叡に、司馬懿は背を向けたまま、しかしはっきりと答える。

「御意にございます。陛下と、この国の未来に、必ず忠を尽くしましょう」

馬の蹄音が遠ざかっていった。
だがその背に、かつてなかった静けさと力があった。

第三章「血の誓い」

第三章「血の誓い」

冬の洛陽は、静かに冷え込んでいた。
曹叡は、書斎の奥にしまわれた小箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、古びた香袋と、一枚の短冊が納められている。
香袋は絹で織られた小ぶりなもので、すでに香は失われていたが、ほんのわずかに――懐かしい気配が残っていた。

「母上…」

短く呟いたその声には、誰も知らぬ悔恨が混じる。

甄氏――彼の母は、賢く、控えめで、誰よりも“理”を重んじる女性だった。
だがその最期は、あまりに非情。
曹叡の父・曹丕により、嫉妬と誤解から処刑されたとされる――それが、曹家の“血”に刻まれた傷であった。

「寧、そなたに話しておかねばならぬことがある」

父に呼ばれた少年は、緊張した面持ちで膝を正す。
曹叡は机の上に、甄氏の香袋をそっと置いた。

「これは、そなたの祖母が残したものだ。…だが、余の手元に戻ったのは、母が命を奪われたあとだった」

「…やはり、祖母上は…?」

「そうだ。正妃でありながら、誤解と陰謀の中で父に殺された」

曹叡の声は震えてなどいない。ただ静かに言葉を紡ぐ。

「寧。帝の血筋とは、常に清らかとは限らぬ。…だが、だからこそ、そなたはこの血に“意味”を与えねばならぬ」

曹寧は目を伏せた。
父の言葉の重みが、胸に突き刺さる。

「父上、私は…この香袋を、心に刻みます。祖母上の無念と、陛下の決意、そのすべてを背負って生きていきます」

「――それでこそ、我が子だ」

曹叡は、香袋をそっと寧の手に握らせる。
その手は小さく、だが確かに帝の血が流れていた。

その夜、寧は一人で庭に立ち夜空を仰ぐ。
冷たい夜風が、頬をかすめる。
だが彼の目には、揺るぎなき光が宿っていた。

(私は、忘れない。祖母の死を。父の覚悟を。そして、この国を守るという誓いを)

ふと遠くで鐘の音が鳴る。
洛陽の夜は深まり、帝の血を受け継ぐ者の心にひとつの誓いが生まれたのだった。

第四章「暗雲と決断」

第四章「暗雲と決断」

洛陽の空に、早春の霞が漂う。
だがその柔らかな光とは裏腹に、朝廷の空気は再びきしみ始めていた。

司馬懿が長安に赴いてからひと月――
その留守を突くように、かつて曹爽派に連なっていた官僚たちが、じわじわと朝廷での発言力を強めていた。

「陛下、蜀への備えは確かに大切にございますが、内政もまた…」
「人材登用について、旧派の意見にも耳をお貸し願いたく…」

声を上げる者は穏やかだが、どこか“牽制”の気配を漂わせている。

曹叡はその日、密かに陳泰と王昶を呼び寄せた。
二人は若くして見識と正義感を備えた新進の士であり、曹叡が密かに目をかけていた人物たちである。

「この朝廷に再び“旧き腐れ”が染み込み始めている。――そなたらには、その芽を摘む責を担ってもらいたい」

陳泰が眉をひそめる。

「陛下、明言なされるのですね」

「余が沈黙すれば、寧の代にはより深く根を張る。今ここで断つ」

王昶が深く頭を下げる。

「お任せを。理を以って、剣は抜かずに整えてみせましょう」

曹叡は笑みを見せなかった。
ただ静かに頷いたのだった。

一方、曹寧は初めて朝議の末席に列し、諸官の議論に耳を傾けていた。
その席で老臣、賈逵が彼に意見を求めたのは、挑発だったのか、それとも試しだったのか。

「殿下は、今の内政の有り様をどうお考えか?」

一瞬、室内が静まる。
だが曹寧は、ためらわず口を開いた。

「法は理なきところに施せば暴となり、理は法なきところにあっては空論となろう。――今の朝廷は、その均衡を失いかけているように思う」

賈逵の目が、わずかに見開かれた。

その場にいた者たちの多くは、驚きと、ある種の“納得”に息を呑んだ。
その言葉は、若さの激情ではなく、静かな理と覚悟に満ちていたからだ。

その日の夜。
曹叡は月明かりの中でひとり、庭を歩いていた。

「寧よ。そなたの言葉に、ようやく帝の影が宿り始めたな」

そうつぶやくその背には、疲労の色がにじんでいた。
かつての病は癒えたとはいえ、曹叡の体は確実に限界を迎えつつある。

(あと、もう少しだけ……)

そう願うように彼は天を仰ぐ。
その視線の先には、帝として、父として、ひとりの男としての最期の決断が――近づいていた。

第五章「光ある未来へ」

第五章「光ある未来へ」

春の気配がようやく洛陽に届き始めたある日、宮中に静かな報せが流れた。
曹叡、再び床に臥す。

病が再発――。
だが、それはもはや“死”そのものではなかった。
むしろそれをきっかけにして、彼自身がひとつの区切りを悟ったかのようだった。

「寧、そなたに託す」

その言葉は玉座の間でもなく、書斎でもなく庭の一隅で交わされた。
風が淡く吹く中、曹叡は座して息子と並ぶ。

「私は……まだ迷うときがあります」

寧の言葉に、曹叡は微笑んだ。

「迷うことを恐れるな。帝とは、答えを知っている者ではなく、“決めねばならぬ者”なのだ」

「決めねば、ならぬ者……」

「そうだ。そして決めたことに、責任を持ち、己の命で背負う者が天子たる器だ」

寧は静かに頷く。
父の背中が、小さく見えるようになった――
だがその背に宿るものは、かつてよりもずっと大きかった。

司馬懿が洛陽に戻ったのは、その数日後だった。
蜀の動きは沈静化し、再び国境は静寂を取り戻した。
彼の帰還を、曹叡は病床で迎える。

「仲達……ご苦労だった」

「陛下の命により、国土を守り得ました。あとは、これよりの魏を、殿下と共に――」

「そうだ。…寧は、そなたにすべてを学ぶべき者だ。余の手は、もう届かぬところへ向かっている」

司馬懿は静かに目を伏せ、深く頭を垂れた。

「この身の残る限り、魏と殿下に忠を尽くします」

その誓いは、かつてとは違う。
己の栄達のためではなく、ただ一人の帝――曹叡の志に報いるための言葉だった。

そして数日後――
朝堂には、新帝即位の儀が執り行われた。

魏の第四代皇帝、曹寧。

まだ若きその姿に、群臣たちは一抹の不安と、同時に不思議な確信を抱いていた。
それは彼の口から放たれた最初の勅語によって、決定的なものとなる。

「我が治めるは、父の理。そして祖母の節。我が支えるは、人の命と、その希望なり」

その言葉に、賈逵は深く頭を垂れ、陳泰と王昶は静かに胸を張る。
司馬懿はただひとつ、目を閉じてその声を胸に刻んだ。

やがて季節は巡り、魏の都には新たな風が吹いた。
曹寧の治世はかつてない安定と繁栄をもたらし、魏王朝はこののち三百年にわたり、中華の正統王朝として名を連ねることとなる。

その礎には一人の皇帝と、その忠臣たちが残した“光”が、確かに存在していた。


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