『義にして王たる 関羽の治世』

義にて王たる関羽の治世

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――プロローグ

かつて、剣を振るうことに迷いはなかった。

義とは、兄を助け、民を守り、乱世を断つこと――そう信じていた。
剣の重さは、信じた義の重さ。
腕を振るえば、正しき道が拓ける。
そう思っていた。
だが、あのとき――
樊城にて水が堤を越え、敵の軍が崩れ落ちるさまを見つめていたとき、風がひとつ頬を撫でた。

「関将軍、報です! 呉が南岸に動きあり! 背後より攻撃の兆し――!」

関羽は、剣を握る手をわずかに緩めた。

勝つことよりも、守るべきものがある。
敵を屠るよりも、背を預ける者たちの命を護ることこそが、義ではないのか。

あのとき、戦を引いたのではない。
義に進んだのだ――そう、自らに言い聞かせた。

だがその日を境に、関羽の歩む道は、誰のものとも違う道となる。

剣は鞘に収められた。
だが、義の光は胸に宿ったままだ。

後に人は、彼をこう呼んだ。

――義王・関羽。

かつての剛将は、やがて王となり、乱世を越えて義による統治をなした。

これはその、知られざる治世の物語である。

水の撤退

堤の上から見下ろす関羽の目に映るのは、水攻めにより水没しつつある樊城の城壁。

襄陽の寒風は、骨の内側まで冷え込んでいた。
川面には薄い氷が張り、陽が昇るたびに砕け、そしてまた凍る。

堤の上から見下ろす関羽の目に映るのは、水攻めにより水没しつつある樊城の城壁。
敵将・曹仁の軍は既に動きを失い、士気は沈み、勝利は目前に見えていた。

「殿、敵の水門が崩れ始めております。このまま明朝には、城は瓦解するでしょう」

報告する関平の声には、抑えきれない興奮が滲む。
勝利は手の内。
父の功績に、またひとつ勲が加わる――そんな確信に満ちていた。

だが関羽は、すぐに言葉を返さなかった。

「……関平よ」

「は」

「呉の動きが、静かすぎるとは思わぬか」

その一言に、関平の眉がわずかに動く。

「同盟下にあるとはいえ、確かに妙ではあります。軍の動きも報せも、数日見られておりません」

関羽は目を伏せ、川面に映る陽光をじっと見つめた。

「孫権の使者が三たび途絶え、交易も細った。言葉は和やかに見えて、実に刺がある」

「まさか、呉が……」

「魯粛が世を去った後、呉の風は変わった。今の孫権は、信で動く男ではない。勝機を狙い、牙を隠している」

関平は思わず拳を握る。

「では、このまま樊城を攻めれば、背後を衝かれるというのですか」

「その可能性が、限りなく高い。曹操と連携しているかは定かでないが……孫権は“勝つ者”と組む道を選ぶ」

関羽は言い切った。

**

その夜、天幕の中で関羽は書を認めていた。
行き先は成都――丞相・諸葛亮である。

「義は、剣を振るうことで成るものにあらず。
戦えば勝てる。だが、その勝ちの先に、民はおるか。
今、我は進まず、退くを選ばん。
これは敗にあらず、守るための義なり」

灯火が揺れた。関羽は筆を置き、目を閉じる。

義を名に持ち、剣を極めた自分が、戦わずして退く。
その決断に迷いがなかったわけではない。
しかし、振るうべき剣を見誤れば、護るべきものすら壊してしまう。

その夜、風は静かだった。

**

数日後、全軍に撤退命令が下された。

ざわめきが陣を駆け巡る。

「勝機を逃すおつもりですか!」
「関将軍、城は目前にございます!」

関羽は彼らの視線を一身に受けながら、声を上げた。

「義兄の志を継ぐ我らが、ただ勝利を求めて何になる」
「今、敵を討てば、背後の地に血が流れる。兵も民も、守る者を失う」

「ならば、勝ちよりも、義を取る。それが我が道だ」

その言葉に、陣のざわめきは止む。
誰も口を開けず、ただ関羽の背中を見つめた。

そして軍は、南へと向けて進み始める。
関羽はその先頭に立ち、樊城を一瞥することもなく、歩を進めた。

遠くから、曹操の軍勢が動いたという報が届く。
呉の動きも活発化していると、偵察が告げてきた。

だがそれらはもう、予期されたことだった。

関羽はただ、静かに歩き続ける。

剣は鞘に収めた。
だがその胸には、かつてよりも鋭く深い「義」の刃が光っていた。

**

歴史はこの瞬間、大きく舵を切ることになる。

関羽が振るわなかった剣が、国の未来を変えるとは――
このとき、誰も想像していなかった。


兄の遺命

関平が文を差し出す。
封には、かすかに見覚えのある印があった。
それは――劉備の直筆の封印だ。

成都の春は、かつてないほどに静かだった。
草花は咲き誇り、子らの笑い声は風に乗って街を巡る。
だが宮城の奥では、そのすべてが遠い出来事のように感じられた。

主君・劉備が病に伏しているという報は、荊州の関羽のもとへも届く。

「……病と申すが、どれほどのものか」

関羽の声は抑えられていたが、その眼光は揺れていた。
張飛が急死し、心労が重なったとも伝えられる。
義兄弟として、あの豪胆な姿を何度も共にした男の最期が、病によって訪れようとは――

「殿、成都より早馬がまいりました」

関平が文を差し出す。
封には、かすかに見覚えのある印があった。
それは――劉備の直筆の封印だ。

関羽はしばし文を見つめ、そして静かに封を切る。

「雲長よ。おぬしだけには、伝えておきたかった。
この乱世の中、我が子劉禅は、まだあまりにも幼い。
孔明殿は政に通じ、文に秀でる。だが軍を率い、国を守れるは、おぬしの他にあらず。
もしものとき、蜀の柱として、後を託せぬか。
これは命ではない。ただ、願いである――兄・玄徳」

その筆致は力強くもあり、同時に静かな諦観を含んでいた。
関羽は手を止め、しばし文を握り締めたまま、動かなかった。

**

数日後。
成都に入った関羽は、宮中にて孔明らと対面する。

「関将軍。…いや、今は“義王”とお呼びすべきかもしれませぬな」

諸葛亮の言葉に、関羽は顔を上げた。

「やめよ。わしは兵であり、王の器ではない」

「器は、刻まれるものです。殿が崩御された今、この国の行く末を誰が担うのか。
それはもはや、義と剣と忠を兼ね備えた者でなくてはならぬのです」

関羽は答えず、ただ拳を握る。

彼の中には、いくつもの声が響いていた。

――王は、義を超える存在なのか。
――剣を置けば、義を失うのか。
――兄の遺志を継ぐとは、命に従うことか、それとも心に従うことか。

「……劉禅様の名は、皇統に連なる者。わしは、支えるに留める。
ただし、今より我が身をもって、国と民を護ろう」

そう言って、関羽は深く頭を垂れた。

孔明もまた、静かに礼を返した。

「では、義王として。お受けいただけますか」

「名ではなく、責を受けよう。義の名にかけて、これを背負う」

その瞬間、かつての剛将は、己の運命をもうひとつ深く背負ったのだ。

**

城外では、桜が静かに舞う。

関羽はその花びらを手に取り、空を見上げる。

「兄者よ。義弟は……ようやく、剣では守れぬものの重さを知った」

その眼差しは、空の向こうの玄徳へと向けられていた。


剣を納めし義

関羽は天を仰いだ。
空は青く澄みわたり、鳥が一羽、城壁を越えて飛んでいく。

城の朝は早い。
まだ日が昇りきらぬ頃、関羽はひとり訓練場に立っていた。

剣ではない。
筆でもない。

ただ、砂に描かれた布陣図の上に、足跡を残していた。

「魏の要衝・長安を抜くには、涼州からの迂回が必要……か」

関羽は、短く息を吐いた。

「だが、そこまで進軍すれば、蜀の民の背ががら空きになる。…守るべきは、前ではなく、後ろだ」

その背後から、柔らかな声が届いた。

「今の関王は、戦の先に民を見ておられるのですね」

諸葛亮である。
彼は静かに近づき、関羽の脇に立った。

「軍を整え、兵を鍛え、旗を掲げても。魏は崩れません。今、蜀が一歩踏み出せば、魏もまた一手を打つ。勝っても、失うものがあまりに多い」

「ならば、打たぬ道もまた策のひとつ」

関羽はうなずく。
だがその言葉の奥に、どこか微かな自嘲があった。

「おぬしは、北伐の機をいつと見る」

「……五年後。いや、十年後かもしれませぬ。されど、その時が来たなら、必ず征する覚悟です」

「我はそれを見届けることができぬやもしれん」

関羽は天を仰いだ。

空は青く澄みわたり、鳥が一羽、城壁を越えて飛んでいく。

「剣を収めて、政を見るようになってから、わかったことがある」

「なんでしょう」

「剣は、振るえば折れる。だが信は、折れずとも消える。――戦は、民の信を削るものだ」

孔明は目を細め、深く頷いた。

「それでも剣を持つ者が、剣を抜かずに国を治める姿を、民は望むでしょう」

「剣を抜かず、なお恐れられる者になれるか。それが、今の我の問いだ」

**

同じ頃、蜀の若き将たち――馬謖らは、魏への進軍を熱望していた。

「このまま手をこまねいていれば、魏に先手を打たれるだけだ! 荊州は要だ。攻めずして何を得る!」

熱を帯びた声が会議場に響く。

だが、その中心にいた関羽は、ただ静かに言った。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず――その“己”とは、ただの兵力や資金ではない。
民の心、国の気、将の器。それを量らねば、進む資格すらない」

馬謖は唇を噛み、黙り込んだ。

関羽は続ける。

「この国は、勝つためにあるのではない。守るためにある。兄者の願いも、孔明の知も、わしの義も、すべてはそれに尽くす」

**

それからの日々、関羽は軍制を見直し、税制を緩やかにし、法を整え飢えた者には米を配った。
関羽は武名ではなく、徳によって治める王へと変わっていったのだ。

人は彼を恐れなくなり、敬うようになった。
それはかつて、戦場で背を向けられることのなかった“関羽将軍”とは異なる威ともいえよう。

**

その夜、関羽は再び筆を取る。

「剣を納めた我が手には、今、何もない。
されど、これほど多くの民の声を受け取るとは。
義とは、剣にあらず。民にあり。…それを知った日、我が手は重きものを握っていた」

風が吹いた。
関羽はその手をそっと開き、灯火のゆらぎに照らされた手のひらを見つめた。

**

この時、蜀は静かに、だが確実に、強くなりつつあった。

剣の王ではなく、義の王が治める国として――


交わらぬ剣

交わらぬ剣 呉の陣には、孫権の名代として老将・呂範が現れた。

長江の風が、重くなった。

荊州の各地に漂う空気は、わずかにだが、確実に張り詰めていた。
商人の往来が鈍り、街の噂は“孫呉の動き”で持ち切りとなる。

「南岸にて、呉の軍船が再集結しつつある模様です」

関平の報告に、関羽はうなずく。

「今、呉が戦を仕掛けるとは思わぬ。だが、構えは見せねばならぬな」

「やはり、軍を展開すべきでしょうか」

「否。逆に、民の動きを止めず、街を開けよ」

「…なぜでございますか」

関羽は、戦場では見せなかった柔らかさを帯びた声音で答えた。

「恐れて守るより、信じて示す方が、深く抑える」

関平は目を見張る。

それはかつての“戦神”とはまるで異なる、王としての胆力だった。

**

その夜、諸葛亮からの密書が届く。

「魏より使者がまいりました。内容は“講和の余地あり”とのこと。
しかしながら、彼らの狙いは明白。蜀と呉を分断し、互いに疲弊させるための言葉です」

関羽は返筆を取らず、ただ文を握ったまま静かに目を閉じた。

「策もまた、剣なり。ならば、言葉もまた、矛となろう」

彼は翌朝、自ら荊州南岸の守備に赴く。

武具ではなく、朝服に身を包み、船に乗って呉との境まで下った。
陣の民たちは驚く。
だがその姿は、確かに「剣を交えぬがゆえの強さ」に満ちていた。

**

呉の陣には、孫権の名代として老将・呂範が現れた。

「関将軍。いや、今や“関王”であられるな。お噂は耳にしております」

「貴公も未だ、孫権の剣として残っておるか」

互いに老いを感じさせる言葉のやり取り。
だが、視線は鋭く交わる。

「戦う気があれば、すでにこの地は火に包まれていよう」

「戦う気があれば、わしは今日ここにはおらぬ」

互いに言葉の剣を突き合わせ、なお踏み込まない。

そして関羽は、わずかに笑った。

「かつて、兄者と孫権殿とで築いた同盟。あれを反故とせぬため、わしは退いた。
いま、そちらに義が残っておるか、見極めに来たのだ」

呂範は口をつぐむ。
返す言葉が、なかった。

**

その日以降、呉の動きは沈静化する。
魏からの使者も引き返し、表向きの講和は進まずとも、戦火の火種は遠ざかった。

だが、宮中では別の緊張があった。

「殿、我らも一矢報いるべきです! 剣を抜かねば、国は侮られます!」

馬謖を筆頭とした若き将たちが、戦を求める声を上げ始める。

「我らは蜀漢の血を引く者。いつまでも黙して座すことこそ、民を裏切る行為では――」

その場に、関羽が現れた。

歩を止めず、壇の前に進み出ると、ただ一言。

「おまえたちは、“勝つこと”を求めておるな」

誰も答えなかった。

「わしは、“続くこと”を選んでおる。それが、兄者の名を継ぐ者の義だ」

その声音に、誰一人、反論できない。

**

夜、関羽は一人、廊の柱にもたれていた。

風が吹くたびに、遠い戦場の音が耳の奥で揺れる。
剣を交えずに治めること。それはかつての己にはなかった力だ。

「剣を収めることが、もっとも困難な戦いかもしれぬな」

関羽はそう呟き、目を閉じた。

星が、静かに荊州の空にまたたいていた。


義王の剣、永遠に

義王の剣、永遠に 関平がそっと差し出した湯のみを、関羽はゆっくりと受け取った。
その手はかつて剣を振るったとは思えぬほど細い。

季節は巡り、荊州に柔らかな秋が訪れていた。
街には祭の歌が流れ、収穫を祝う子らの笑い声が遠くまで響く。

だが、王城の奥――ひとつの静寂が、緩やかに広がっていた。

関羽は病に伏していた。
老いの兆しはここ数年で一気に進み、今や床を離れることも少なくなっている。

「殿、お水を……」

関平がそっと差し出した湯のみを、関羽はゆっくりと受け取った。
その手はかつて剣を振るったとは思えぬほど細い。

「……民は、変わらぬか」

「はい。政は滞らず、税も安く、街道も賑わっております」

「……そうか。ならば、よい」

そう言って関羽は、静かに目を閉じた。

**

日が沈みかけた頃、関羽は諸葛亮と二人きりで対面する。

「孔明よ。わしの義が、国を守ったと言えるか」

その問いに、諸葛亮はすぐには答えなかった。

「……民は剣を見て恐れず、徳を見て集まりました。
関王の義は、剣以上に人を動かしました。これを守りと呼ばずして、何を守りと申せましょう」

関羽はわずかに笑い、

「おぬしの策と文がなければ、わしの義など、風に流れただけのことよ」

「では、その風は、この国の柱を磨いた風です」

**

その夜、関羽は遺詔を記した。

「剣を振るわずに守った日々こそ、我が誇りである。
関羽は、もはや剣を持たぬ。だが義を持ち、道を遺す。
次にこの座に立つ者は、剣に惑わされず、心に民を映すべし。
義とは、勝つことにあらず。絶やさぬことにあり」

遺詔を読み上げる声に、誰もが目を伏せた。

**

数日後、義王・関羽は、静かに息を引き取った。

人々は涙を堪え、やがて整然と並び、城の前に跪く。
兵も商人も、子も老いも、誰もがその死を“王の終わり”ではなく、“義の継承”として受け止めていた。

諸葛亮は彼の霊前にひとつの言葉を捧げる。

「関王、義にして王たり。
その剣、今は鞘にあり。だがその光は、国の礎となりました」

**

後年、荊州の城のそばに一つの石碑が立てられた。

「義王関羽 ここに眠る
剣を振るわず、民を守りて、国を保つ」

碑の傍らには、子らが遊び、老いた商人が腰を下ろして空を見上げていた。

空は、あの時と同じく、澄み渡っていた。

そしてその青の彼方で、剣を収めたひとりの男が、微かに微笑んでいたように――
そう思えた者もいた。

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