「朝鮮って、いつできた国なの?」「建国者は誰だったの?」「今の韓国や北朝鮮とは関係あるの?」──このような疑問を持ったことはありませんか?
「朝鮮」と聞くと、現代の国家である北朝鮮や韓国を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし歴史的に「朝鮮」といえば、1392年に李成桂(り・せいけい)が建てた李氏朝鮮(りしちょうせん)王朝を指します。
本記事では、この李氏朝鮮の成立を中心に、「朝鮮の建国者とは誰か?」「朝鮮はいつ誕生したのか?」といった基本的な疑問を、やさしく丁寧に解説していきます。
あわせて、「朝鮮半島の歴史」や「北朝鮮・韓国の建国者は誰なのか?」といった現代とのつながりにも触れながら、朝鮮という国の成り立ちと変遷を通して、東アジアの歴史に対する理解を深めていきましょう。
歴史を知ることは、今を知る手がかりになります。
ぜひ最後までお読みいただき、「朝鮮」という言葉の背後にある複雑で豊かな歴史に触れてみてください。
朝鮮の建国者・李成桂とは?王朝の始まりと歴代の王たち
朝鮮という国名の始まりは、14世紀末に登場した一人の武将によって切り開かれました。
その人物こそが、李氏朝鮮の建国者・李成桂(り・せいけい)です。
ここでは彼がどのようにして国を築いたのか、また王朝がどのように発展していったのかを、歴代の王とともにたどっていきましょう。
李成桂とはどんな人物?朝鮮王朝を建てた立役者

◆ 高麗末期の名将として活躍した背景
14世紀末の朝鮮半島は、高麗王朝が衰退の一途をたどる中、政治腐敗と外敵の脅威が重なり混乱の時代を迎えていました。
そんな中、注目を集めたのが一人の軍人――李成桂でした。
彼は咸鏡道(かんけいどう/現・北朝鮮北東部)出身で、女真族との国境防衛において抜群の指揮能力を発揮し、着実に頭角を現します。
とくに彼の軍才は、「実戦経験に裏打ちされた現実主義」として知られ、当時の将軍たちの中でも異彩を放っていました。
また高麗王室からの信頼も厚く、次第に軍事だけでなく政権中枢にも影響力を持つようになります。
◆ 倭寇討伐で名声を得る
李成桂が広く名を知られるようになったのは、倭寇(わこう)討伐戦での勝利です。
14世紀には日本からの海賊行為が激化しており、朝鮮半島の沿岸地域はたびたび襲撃を受けていました。
李成桂はこの脅威に対し、果敢に軍を率いて応戦。
1378年には黄海道での戦いで倭寇を撃退し、民衆の間でも「救国の英雄」として称賛されるようになります。
これにより軍人としての評価は決定的なものとなり、高麗王朝の中でも最有力の将軍へと登り詰めていきました。
倭寇討伐の功績は、単なる戦果にとどまらず、「民心を掴んだ」という意味でも極めて重要な出来事だったのです。
◆ 明と親交を深め、易姓革命へ踏み切るまで
その後、李成桂の運命を大きく変えたのが、中国大陸での明の台頭です。
当時、高麗は元(モンゴル帝国)と深いつながりを持っていましたが、次第に新興勢力である明が覇権を握りつつありました。
李成桂は国の未来を見据え、明との関係強化を進めていきます。
1388年、高麗王の命により明を討つべく北伐を命じられた李成桂は、「国を滅ぼす戦いに意味はない」と判断し、威化島(いかとう)での兵の引き返し(威化島回軍)という大胆な行動に出ました。
これはまさに歴史を変えた決断であり、その後、彼は政権を掌握し、ついには高麗を倒して新たな王朝「朝鮮(李氏朝鮮)」を建国するに至ります。
この政権交代は中国思想でいう「易姓革命(えきせいかくめい)」、つまり「天命が移った正当な王朝交代」として正当化されました。
李成桂の行動は、軍事と外交、そして政治判断のすべてを巧みに組み合わせたものだったのです。
朝鮮はいつ建国された?【李氏朝鮮の成立:1392年】

◆ 高麗から李氏朝鮮への政権交代
14世紀末、かつて繁栄を誇った高麗王朝は、政治腐敗と外患により内外から揺らぎを見せていました。
そんな中、実権を握りつつあったのが名将・李成桂です。
倭寇討伐や明との交渉を通じて国民の信頼を集めた彼は、もはや王を補佐する立場ではなく、王朝そのものを変える力を持っていました。
1388年の「威化島回軍」を経て、李成桂は高麗王・恭譲王を擁立し、実質的な政権を掌握。
やがて王を廃し、自ら新たな王朝を築く道を選びます。
こうして起こったのが、歴史的な高麗から李氏朝鮮への王朝交代です。
この転換は軍事クーデターでありながら、当時の儒教思想において「天命の移動」として正当化されました。
◆ 建国年は1392年、首都は漢陽(現在のソウル)
李成桂が正式に即位し、新たな国「朝鮮」を建国したのは1392年(洪武25年)のことです。
彼は国号を「朝鮮」と定め、王朝体制を整備し始めます。
この国号には、古代の「古朝鮮」への敬意と、新たな統治の正統性を重ねた意味合いが込められていました。
また、李成桂は翌1394年、国の中心を開城から漢陽(現在のソウル)へと移します。
地理的には朝鮮半島の中部に位置し、交通・防衛・経済のすべてにおいて優れた立地を誇る都市です。
この遷都によって、朝鮮王朝の行政基盤は安定し、新たな時代の幕開けを象徴する一歩となりました。
◆ 年号「建元」を定めた意義
朝鮮建国にあたって李成桂は、独自の年号「建元(けんげん)」を制定します。
これは明の年号をそのまま用いず、自国の王朝としての独立性を示す重要な儀礼的・政治的決断でした。
儒教的な価値観に基づけば、王朝を立てる者は「年号」を持つことで初めて「天命を受けた君主」と認められるのです。
ただし朝鮮王朝は名目上、明に朝貢する体制を取りました。
そのため、「建元」はごく短期間で廃止され、以降は明の年号を使用するという“二重の姿勢”を見せることになります。
これは小国としての外交的配慮でありながら、国内的には王権の正当性を強調するための布石でもあるのです。
李氏朝鮮の歴代王と時代の流れ【27代の王たち】

◆ 世宗(ハングル制定)・英祖・正祖などの名君
李氏朝鮮王朝は、1392年の建国から1910年まで27代にわたって続いた長期王朝でした。
その中でも特に高く評価されているのが、第4代王・世宗(せいそう)です。
彼は学問と文化を奨励し、何よりも有名なのがハングル(訓民正音)の創製です。
識字率が低かった当時、庶民でも読み書きができる文字体系の整備は、朝鮮文化の発展に大きく寄与しました。
また、第21代王・英祖(えいそ)は儒教的統治を徹底し、社会秩序の安定を図ります。
続く第22代王・正祖(せいそ)は改革意欲に富み、官僚制度や軍制の刷新に取り組みました。
名君と称されるこれらの王たちは、王朝の中興期を築き上げ、今なお高い評価を受けていますね。
◆ 日本との関係(壬辰倭乱、江華島条約)
李氏朝鮮の歴史を語る上で避けて通れないのが、日本との関係でしょう。
16世紀末には、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって始まった壬辰倭乱(1592年)が勃発。
日本軍による侵攻に対し、朝鮮は明の援軍を受けながら激しく抵抗し、戦火は国土を荒廃させました。
この戦争は朝鮮王朝にとって大きな転換点であり、後の対外政策にも深い影響を残します。
そして19世紀に入ると、日本との関係は再び緊張を迎えます。
1876年、江華島事件をきっかけに結ばれたのが江華島条約でした。
この条約により、朝鮮は日本に対して開国を迫られ、独立国でありながら不平等条約を強いられることになります。
以後、朝鮮半島は列強の干渉を受けやすい不安定な状態へと向かっていくのです。
◆ 朝鮮王朝の滅亡と大韓帝国への移行(1897年)
19世紀末、外圧と内政の混乱が重なり、李氏朝鮮王朝は大きく揺らぎはじめます。
清やロシア、日本といった列強の争いのなかで、朝鮮は主権を守るための選択を迫られるようになりました。
そして1897年、第26代王・高宗(こうそう)は、清の支配的立場を排し、国号を「大韓帝国」と改めて皇帝に即位します。
これにより、李氏朝鮮は形式上の王朝から独立国家・帝政国家へと移行することになります。
しかしながら、その改革も長くは続かず、1905年の日韓保護条約、1910年の日韓併合によって、王朝は完全に終焉を迎えます。
500年以上続いた朝鮮王朝はここに幕を下ろし、近代の激動期へと突入していくのです。
朝鮮はいつ誰が建国した?現代の韓国・北朝鮮との違いも解説
ここまで、李成桂によって建国された朝鮮王朝の成り立ちとその歴代王について見てきました。
しかし、「朝鮮」という言葉は、現代では北朝鮮や韓国を指すこともあります。
ここからは、「朝鮮はいつ誰が建国したのか?」という問いをさらに深掘りしながら、近代以降の韓国・北朝鮮との違いについても整理していきましょう。
朝鮮の建国に見る歴史の区切り

◆ 「朝鮮=李氏朝鮮王朝(1392〜1897年)」
「朝鮮」という国名は、厳密には1392年に李成桂が建国した李氏朝鮮王朝を指します。
この王朝は1897年に大韓帝国へ改称されるまで、500年以上にわたり朝鮮半島を統治しました。
つまり、歴史的に「朝鮮がいつできたか?」という問いに対して最も標準的な答えは、1392年ということになるでしょう。
この王朝は儒教を国教とし、科挙制度や中央集権体制を導入。
朝鮮の文化や制度、価値観の基盤を築いた点で、現代の韓国や北朝鮮にも影響を与えるほど重要な存在でした。したがって、「朝鮮=李氏朝鮮王朝」と理解することが、歴史を整理するうえでの出発点となります。
◆ 「朝鮮半島の歴史」としての通史的観点
一方、「朝鮮」という言葉をより広い視点で捉えるなら、朝鮮半島そのものの歴史全体を指す用法もあります。
この通史的な観点に立てば、「朝鮮の歴史」は李氏朝鮮よりもはるかに古く、紀元前の古朝鮮、そして高句麗・百済・新羅の三国時代から始まりますね。
その後、統一新羅、高麗、李氏朝鮮と続き、やがて近代の韓国・北朝鮮へと移行していきました。
このように「朝鮮いつ?」という問いには、文脈によって答えが変わるため、「王朝としての朝鮮」と「地域や民族としての朝鮮」を区別する視点が重要です。
◆ 王朝国家と民族的アイデンティティの違い
「朝鮮」という言葉は、国家体制を指す場合と、民族や文化を指す場合とで意味合いが大きく異なります。
たとえば、李氏朝鮮王朝が終焉を迎えた後も、そこに暮らす人々は「朝鮮人」としてのアイデンティティを保ち続けました。
これは、王朝の滅亡=民族の終焉ではないことを示しています。
現代でも、北朝鮮は正式名称を「朝鮮民主主義人民共和国」とし、韓国では「朝鮮民族」という表現が一般的に使われます。
つまり、「朝鮮」という言葉は単なる国家名ではなく、長い歴史と文化、そして民族の自意識を含んだ重層的な概念なのです。
北朝鮮と韓国の建国者は誰か?

◆ 北朝鮮:金日成(1948年 建国)
現在の北朝鮮、正式名称朝鮮民主主義人民共和国は、1948年9月9日に建国されました。
その建国者とされるのが、共産主義者としてソ連と密接な関係を持っていた金日成(キム・イルソン)です。
彼は抗日パルチザンとして活動し、第二次世界大戦後はソ連の後押しを受けて北朝鮮地域の支配者となりました。
金日成は「主体思想(チュチェ)」という独自の政治理念を掲げ、強固な独裁体制を築きました。
建国以降、北朝鮮は世襲による体制をとっており、金日成 → 金正日 → 金正恩と3代にわたって統治が続いています。
◆ 韓国:李承晩(1948年 建国)
一方、韓国こと大韓民国も同じく1948年(8月15日)に成立しました。
こちらの初代大統領は李承晩(イ・スンマン)であり、彼が実質的な建国の中心人物とされています。
李承晩はアメリカ留学を経て独立運動に関わり、戦後はアメリカの支援を受けて韓国政府の樹立を主導しました。
韓国の建国は、国際的には「朝鮮半島における唯一の正統政府」として認定され、国連にも早期加盟を果たします。
李承晩政権は独裁的な側面を持ちながらも、民主化の基盤をつくる第一歩を担いました。
◆ 李氏朝鮮とのつながりは地理と民族のみ
北朝鮮・韓国のどちらも、「朝鮮」という名称や歴史文化の延長線上にあるように見えますが、実際には李氏朝鮮王朝とは直接的な政治的つながりは存在しません。
両国家ともに建国者は近代の政治指導者であり、王朝の制度や王位継承とは無関係です。
ただし共通しているのは、朝鮮半島という地理的領域と、そこに根付く朝鮮民族というアイデンティティです。
つまり李氏朝鮮の遺産は制度としてではなく、文化・言語・歴史意識といった形で現代に受け継がれているのです。
朝鮮半島の歴史をざっくり時系列で解説
時代区分 | 年代(おおよそ) | 主な出来事・特徴 |
---|---|---|
古朝鮮 | 紀元前2333年頃〜前108年 | 檀君神話に基づく伝説的な建国/衛氏朝鮮が漢に滅ぼされる |
三国時代 | 1世紀〜668年 | 高句麗・百済・新羅が朝鮮半島を三分/文化・外交が活発化 |
統一新羅 | 668年〜935年 | 新羅が唐と連携し高句麗・百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一 |
高麗王朝 | 918年〜1392年 | 王建が建国/仏教文化が栄える/元の干渉と倭寇の侵入が続く |
李氏朝鮮 | 1392年〜1897年 | 李成桂が建国/儒教を国教化/ハングル創製/壬辰倭乱や清の侵攻 |
大韓帝国 | 1897年〜1910年 | 高宗が皇帝に即位し国号を改める/列強との外交で独立維持を模索 |
日本統治時代 | 1910年〜1945年 | 日韓併合により朝鮮半島が日本の統治下に/独立運動が活発化 |
分断国家の時代 | 1945年以降〜現在 | 北緯38度線を境に米ソが分割占領/1948年に韓国と北朝鮮がそれぞれ建国 |
【結論まとめ】
「朝鮮の建国者は誰か?」という問いに対して、歴史的に最も一般的な答えは、1392年に李氏朝鮮を建国した李成桂(り・せいけい)です。
彼は高麗の末期に登場し、新たな王朝を打ち立てて500年以上続く体制を築きました。
一方、現在の北朝鮮と韓国は、それぞれ1948年に成立したまったく別の近代国家です。
北朝鮮の建国者は金日成、韓国の建国者は李承晩とされており、李成桂との直接的な継承関係はありません。
このように「朝鮮」という言葉には、
- 王朝名(李氏朝鮮)
- 民族的な呼称(朝鮮民族)
- 地理的な表現(朝鮮半島)
といった、複数の意味が重なっています。
だからこそ、「朝鮮はいつできたのか?」「建国者は誰か?」という問いには、文脈によって異なる答えが存在するのです。
それぞれの立場や時代背景を踏まえて読み解くことが、歴史を正しく理解する第一歩と言えるでしょう。
参考リンク 李氏朝鮮Wikipedia