目次
第一章 崇禎帝の最期と燃え落ちる都

春の風はまだ冷たいはずだった。だがその夜、北京の空は炎に焼かれ、まるで地獄の窯のように赤々と輝いていた。街路を埋めるのは逃げ惑う民の叫びと、略奪に走る兵士の怒号。瓦屋根が崩れ落ちる轟音とともに、紫禁城の方角から黒煙が立ちのぼっていた。
その混乱のただ中で、明王朝最後の皇帝・崇禎帝は煤山の小高い丘にひとり佇んでいた。三十代の若さであったが、その顔には深い疲弊の色が刻まれている。数年にわたり続いた戦乱と飢饉、そして民心の離反――帝王の肩には、あまりにも重い現実がのしかかっていた。
「朕は、ついに天下を護ることができなかったか……」
夜風に消え入りそうな声は、誰に届くでもない。近臣はすでに散り、皇后は先に命を絶っていた。娘たちも後を追い、宮廷に残されたのは燃えさしと屍ばかり。孤独は骨の髄にまで沁み渡り、彼を苛んだ。
崇禎帝は腰帯を解き、近くの木の枝に結んだ。その動作は驚くほど静かで、むしろ清らかな決意のように見えた。都を炎に呑まれた帝王の体は、やがて夜空に浮かぶように宙を揺らした。その姿は哀れであると同時に、どこか崇高でもあった。
その報せは、夜明け前には北方の山海関に届いた。ここは明朝防衛の要であり、万里の長城が海に突き当たる要衝である。守将を務めていたのが、若きながら勇名を馳せた呉三桂であった。
「陛下が……お亡くなりに?」
報告を受けた瞬間、呉三桂の胸は雷鳴のごとく打ち震えた。これまで剣を執り、血を流してきたのはすべて主君のためである。その存在を失ったとき、自らの忠義はどこへ向かうのか。
彼の幕舎の外では、兵たちがざわめいていた。李自成の大軍は北京を制し、やがて北へ勢いを伸ばしてくるだろう。さらに東からは、虎視眈々と侵入の機をうかがう清の大軍が迫っていた。敵は二つ。しかし味方は失われた。
「我が剣は何のためにあるのか……」
呉三桂は天幕の中で独り言のように呟いた。燃え上がる都の赤光が、遠く地平を照らしている。その光は彼の眼に映り込み、炎のように揺らめいていた。
忠義と生存。守るべきものと裏切り。彼の胸には、答えのない問いが渦巻いていた。だがこの瞬間こそが、やがて彼を“明王朝最後の名将”と呼ばしめる道の入り口であった。
第二章 陳円円と決断の時

山海関の幕舎には、戦の喧騒とは隔絶された静謐な空気が漂っていた。蝋燭の灯が揺れ、白絹の帳に淡い影を落としている。その奥に座していたのは、絶世の美姫と謳われる陳円円であった。
彼女の名は、後世に語られる呉三桂の裏切りの理由と結びつけられてきた。「恋姫を奪われた怒りが清への通じを決断させた」と。しかしこの世界線は違う。彼女は呉三桂の傍らにあり、彼を惑わすのではなく、支えとなっていた。
「殿、陛下はすでに……」
円円の声は、悲しみを押し隠した柔らかさに満ちていた。崇禎帝の訃報を受け、涙に濡れたその眼差しは、ただ一人の将の心に寄り添っている。呉三桂は黙してうつむき、拳を握りしめた。
「主君を失った今、私は何に忠義を尽くせばよいのか。李自成に従うべきか……いや、それも裏切り。清に走るなど言語道断だ」
低く絞り出す声に、円円はそっと近づき、彼の手を包んだ。その指先は冷えていたが、触れた瞬間、不思議な温もりが彼の胸を満たした。
「殿。私は誰に従えとは申しません。ただ、民のために剣を振るってください。都で泣き叫ぶ者たちを救えるのは、殿のような方なのです」
呉三桂は彼女の言葉に顔を上げた。蝋燭の炎に照らされた彼女の瞳は、揺らぎのない真実を宿している。
「民のために……か」
彼の胸中で、長らく絡まっていた葛藤の糸がほどけていくようであった。清に屈すれば、一時の安寧は得られるかもしれぬ。しかしそれは永遠に異民族の支配を許すことになる。李自成に従えば、名分は立つが、彼の軍は規律を欠き、中原を荒らすだけに終わるだろう。
その時、幕舎の外に使者が現れた。李自成の密使である。彼は言葉巧みに呉三桂を誘おうとした。
「大順皇帝は将軍の忠勇を高く評価しておられる。今ならば、要地の支配を保証し、厚遇をお約束するとのこと」
しかし呉三桂は沈黙を守った。彼の眼差しはすでに、遠く東の地平を睨んでいた。そこには北方から侵入を狙う清軍の影がある。
「外敵を討たずして、中原を奪い合うことに何の意味がある」
呟きは低く、だが力強かった。密使は言葉を失い、静かに退いた。幕舎の中に残されたのは、呉三桂と陳円円。そしてひとつの決意である。
呉三桂の心は固まった。清を迎え入れることはない。裏切りの将にはならぬ。彼はこの剣を、大明の土を護るために振るうのだ。
その決意を知った円円は、安堵の微笑を浮かべ、そっと彼の肩に身を寄せた。夜はまだ長い。しかし、その闇の奥に、ひと筋の光が確かに芽生えていた。
第三章 山海関の戦い 裏切りなき決断

春まだ浅い北辺の空は、乾いた風に満ちていた。万里の長城が渤海へと突き当たる山海関――その城壁の上には、遠くから迫る軍旗の影が見えていた。砂塵が舞い上がり、地平はかすみ、戦の予兆が重く漂っている。
東の地平には、黒々とした軍勢の影が迫っていた。旗に刻まれた満洲文字が風に踊り、槍と弓の列は波のように続いている。率いるは清の摂政王・ドルゴン。冷徹にして智謀の将、その眼差しは獲物を狙う鷹のごとく鋭かった。
史実の世界では、呉三桂はこの清軍を招き入れ、李自成を撃ち滅ぼす道を選んだ。だが、この世界線では違う。彼は裏切りを拒み、李自成と一時的な同盟を結んだのだ。外敵を退けるために。
夜明けとともに、山海関の城門が開かれる。呉三桂の軍勢三万が雄叫びを上げて飛び出した。彼らの顔には決意が刻まれている。背後には滅びの帝国を背負い、目の前には異民族の大軍。退路はない。
やがて西方からも鬨の声が響いた。李自成の軍が平野を越えて進軍してくる。規律を欠いた農民兵と侮られていたが、この一戦では必死さが違った。呉三桂の名声と勝利への執念に触発され、彼らもまた命を賭す覚悟を見せた。
「撃て!」
呉三桂の号令とともに、矢の雨が空を覆った。数千の清兵が馬から転げ落ちる。だが、ドルゴンの指揮は揺るがない。騎兵隊が両翼から突撃し、瞬く間に戦場は混沌へと変わった。
砂塵が舞い、視界は遮られる。馬のいななき、刃がぶつかり合う金属音、そして兵の断末魔が渦巻く。呉三桂は自ら馬首を進め、長槍を振るった。彼の槍先は風を裂き、敵兵を次々と突き倒す。その勇猛さは兵の心を奮い立たせ、戦場のあちこちで「大明万歳!」の声が響いた。
李自成軍もまた背後から圧力を加える。規律は乱れても数は多い。清軍は次第に挟撃の形に追い込まれていった。
「これ以上は危うい」
冷静に状況を見極めたドルゴンは、やがて退却を命じた。戦場に残されたのは、満洲旗の無念の影と、勝利に沸く大明・大順連合軍の声であった。
この勝利により、清の中原侵攻は数年遅れることとなる。歴史の大河は決して変わらぬとしても、その流れは確かに揺らいだ。
戦いを終えた呉三桂は、砂塵にまみれた顔で空を仰いだ。冷たい北風が彼の頬を打つ。だが胸中にはひとつの確信があった。
「我が剣は裏切りのためにあるのではない。大地を護るためにこそあるのだ」
その言葉は、燃え立つ戦場の空気とともに、兵たちの胸に深く刻まれた。
第四章 李自成との微妙な同盟

山海関の勝利は、人々に一時の安堵を与えた。清軍は退き、外敵の脅威は遠のいた。だが、その空白を埋めるように、李自成が「新たな天子」として中原を支配し始める。彼の軍は北京に入り、玉座に座したその姿は一時的に英雄と讃えられた。
「農民を率いて腐敗した明を打倒した」と人々は喝采した。しかし、その喝采は長くは続かない。規律なき軍勢は城内外で略奪を繰り返し、飢える民の嘆きはむしろ増した。重税は続き、役人の腐敗は形を変えて残った。明を倒した英雄は、やがて新たな圧政者にすぎぬと人々は悟り始める。
呉三桂は、その現実を冷ややかに見つめていた。彼は李自成を信じてはいなかった。勝利の後に訪れた宴席で、李自成が高らかに「天下は我が掌中にある」と笑うのを横で見ながら、心の内では深いため息をつく。
「彼は天下を治める器ではない……」
そう思いながらも、呉三桂は表向きは協調を装った。李自成の軍と正面から争えば、再び清軍の侵攻を許すだけである。民を守るには、たとえ信を置けぬ相手であっても、一時の同盟を結ぶしかなかった。
夜更け、幕舎に戻った呉三桂の傍らには、変わらず陳円円がいた。彼女は彼の肩にそっと寄り添い、静かに問いかける。
「殿は、李自成に従うおつもりですか?」
呉三桂はしばし黙していたが、やがて低く答えた。
「従うのではない。清を防ぐために、利用するだけだ。民のためには、今はこの道しかない」
彼の言葉には苦渋が滲んでいた。忠義を尽くすべき主はすでにいない。だが剣を収めることはできぬ。大地に生きる民を守るために、己はまだ戦わねばならないのだ。
円円は彼を見上げ、静かに微笑んだ。
「殿の心は、裏切りではなく、ただ民にあるのですね。それでよいのではありませんか。忠義とは必ずしも一人の主君に仕えることではなく、この地を護ることでもありましょう」
その言葉に、呉三桂は胸の重荷が少し軽くなるのを感じた。彼女の瞳には揺るぎない誠実さがあり、迷いを包み込む温かさがあった。
「裏切り者と呼ばれるくらいなら、何もせぬ方がよいと思っていた。しかし……民を守るためなら、たとえ誰に何と呼ばれようと構わぬ」
呉三桂の声は、燃え残る灯のように低く、だが確かに力強かった。
夜は静かに更けていく。李自成との同盟は不安定であり、未来は見えぬ。だが陳円円の言葉が、彼の胸の奥に一本の柱を立てた。忠義と現実の狭間で揺れる心を支える、細くとも揺るぎなき柱であった。
第五章 最後の名将として

山海関の勝利から幾年。戦場の空気は再び冷たく張り詰めていた。清軍は敗北を糧とし、力を蓄えて戻ってきた。ドルゴンの采配はさらに冴え渡り、精強な騎兵は荒野を疾駆し、山を越え、川を渡り、ついに中原を飲み込んでいく。
呉三桂は最後まで剣を手放さなかった。彼は李自成の没落を冷ややかに見届け、乱れる大順の残兵をまとめて抗清の軍を組織した。だが時代の大勢は変わらない。女真族の軍勢は止まらず、国の都市は次々と落ちていく。
「これほど抗っても、結局は流れを変えることはできぬのか……」
戦塵にまみれた鎧のまま、呉三桂は天を仰いだ。彼の眼には、燃え落ちる城壁や逃げ惑う民の姿が焼き付いて離れない。剣は幾度も血を吸い、馬は幾度も倒れた。それでも彼は背を向けなかった。
やがて清軍が決定的に中原を制圧したとき、彼はすでに老いていた。だが、その名は「裏切り者」とは呼ばれなかった。民を見捨て、外敵を招き入れた将ではなく、最後まで抗い、忠義を尽くした名将として語り継がれた。
「明王朝最後の名将、呉三桂」
その言葉は敗者の国にとって、せめてもの誇りであった。滅びを避けられぬとしても、抗った者の魂は消えはしない。
彼の傍らには、変わらず陳円円がいた。戦の合間に見せる彼女の微笑みは、荒れ果てた世に咲いた一輪の花のようであった。彼女は呉三桂の苦悩も、怒りも、そして忠義もすべてを見守った。
「殿、貴方は裏切り者ではありません。民はきっと忘れません」
その囁きに、呉三桂は静かに頷いた。剣を握る手は震えていたが、その眼差しは最後まで曇らなかった。
やがて時代は清の天下となり、明の名は歴史の奥へと消えた。だが、もし彼が裏切りを選ばなかった世界線においては、人々の記憶の中にひとつの物語が残った。
滅びの時代に、忠義を貫いた男がいたこと。
そして、その傍らで花のように咲き続けた女性がいたこと。
彼らの姿は、やがて伝説となり、後世に静かに語り継がれていく。
完