雪は静かに降り積もっていた。
声なき者たちの記憶を覆い隠すように。
それは、ひとつの時代が終わる音だった。
蕭月蓮――かつて隋の皇女として生まれ、国の滅亡を目の当たりにした女。
彼女は、敵であるはずの唐の皇帝・李世民の人柄と理想に触れ、己の出自を超えて「太宗の治世」を信じるようになった。
それは憎しみを超えた心の邂逅であり、血ではなく理想の系譜として受け継がれる想い。
だが、李世民はすでにこの世を去った。
その遺志を継ぐべきはずの若き皇帝・高宗は、病に悩み、政の実権は后・武照へと移りつつある。
そして今、太宗もまた果たせなかった悲願――高句麗遠征が、ふたたび始まろうとしていた。
これは、三代にわたって繰り返された「戦の記憶」と、
その果てに訪れる勝利なき勝利を見つめる者の物語である。
老いた名将・李勣。
若き高宗と、その影となる武照。
そして、ただ静かにすべてを見届ける女――月蓮。
彼女の名は、歴史には残らない。
だがその目には、理想も苦悩も、すべて映っていた。
これは、語られなかった真実の記録。
雪が静かに降り始めるとき、
かつて理想を信じた者たちの声が、ふたたび風に溶けてゆく――。
目次
理想の終焉

李世民が崩御した日の長安に、季節外れの雪が降る。
春を待つ都を覆う白は、死者の息が雲となって戻ってきたかのように淡く冷たかった。
蕭月蓮は、その雪を見上げていた。
かつて隋の最後の皇女として生まれ、亡国を経て流浪の中で唐の太宗と出会った女。
敵であるはずの李世民に理想を見出し、心の奥底で隋の血よりもその治世を信じてしまった女。
その想いは、誰にも語られることなく、今も胸の奥でひそやかに灯っている。
「先帝は雪のような方だった」
月蓮はかつて李世民の姿をそう思っていた。
民の声を聞き、賢臣を用い、戦よりも治世を優先する。
冷たさの中に温かさがあり、強さの中に脆さがあった。
今、彼女の手には一通の書状が握られている。
李世民が崩御の数日前、房玄齢を通じて密かに渡されたものだ。
内容は短く簡潔であった。
『もし世が揺らぐときが来たなら、この書を李勣に届けよ』
月蓮には理解できていた。
李世民が最後に信を置いたのは、老いた名将・李勣であることを。
唐という国が、これから「勝利」を追い求める国へと変わることを。
そして、その中で「勝つことよりも、どう勝つか」を問う者が必要になることを。
都では早くも高宗の即位の準備が始まり、儀礼に追われる文官たちの声が広場に響いていた。
だがその中心にいる若き高宗は、父のようには笑わず、父のようには語らなかった。
皇后・武照は深い黒の衣を纏い、誰も寄せ付けぬように雪を踏みしめて歩いていく。
その瞳には、何も映していないようでいて、すべてを見透かしている冷たい光があった。
月蓮は人混みを避け、太宗の柩が運ばれる路地の外れで雪を浴びながら立つ。
先帝の棺が通ると、民たちは頭を垂れ、涙を流す者もいた。
その光景を見つめる月蓮の目に、雪が降り注ぐ。
彼女は口を開きかけて、やめた。
この想いを言葉にしてしまえば、その温度が失われてしまう気がしたからだ。
ただ唇の奥でひとことだけ、小さく呟いた。
「ありがとうございました」
雪はその言葉を吸い込むようにして、また静かに降り続ける。
その夜、月蓮は小さな宿に身を置き、蝋燭の灯の中で書状を見つめていた。
李勣はすでに遠征の準備に入っているという。
武照は勝利を欲し、高宗は権威を欲し、房玄齢の息子たちは功績を欲している。
けれどその勝利は、太宗が望んだものとは異なる。
月蓮は知っていた。
高句麗遠征――それは、煬帝の代で父が願い、太宗の代で叶わず、高宗の代で再び始まろうとしている戦い。
三代にわたる悲願であり、三代が失い続けてきた“理想”の象徴であった。
その翌朝、雪は止んでいた。
月蓮は太宗の書状を小さな袋にしまい、旅装を整えた。
向かう先は李勣の陣営――北へ、雪の大地へ。
三代の果てに何が待つのか。
答えは知らずとも、見届けなければならないと月蓮は思った。
そして旅立つ月蓮の背には、まだ白い雪が静かに降り積もっていた。
老将の影、若帝の空

雪が止むと、都にはいつもの喧噪が戻る。
先帝の崩御からわずか数日、喪が終わるのを待ち構えていたかのように、宮中では新帝・高宗の即位準備が進められ、役人たちの足音が廊下を行き交っていた。
月蓮は都の北門から人目を避けるように出発した。
向かう先は、老将・李勣が駐屯する北の軍営。
彼女の懐には、先帝から託された書状がある。
『もし世が揺らぐ時が来たなら、この書を李勣に届けよ』
その言葉は、まるで未来の混乱を見据えていたかのようだった。
行軍の途上、月蓮は馬を下りて雪解けの土を踏みしめた。
春を迎えるはずの大地には、まだ白が残り、空気は冷たく張り詰めている。
道中、農民たちの粗末な家々を通り過ぎると、門の前で小さな祈りを捧げる人々の姿があった。
彼らは誰に祈っているのか。
戦の勝利か、家族の無事か、それともこの国の未来か――
月蓮には、それが分かるようで分からない。
やがて軍営の幟が遠くに見え、火の煙が立ち昇っているのを認めたとき、月蓮の胸は静かに高鳴った。
李勣は、かつて先帝のもっとも信頼した将の一人である。
多くの戦場で勝利を収めながらも、それを誇示することなく、ただ「戦は民を守るためにある」という言葉を忘れぬ者だった。
軍営に入ると、李勣の幕舎の前には若い将校たちが忙しなく出入りする。
その中には、房玄齢の息子である房遺愛の姿もあった。
彼は父のような温和さではなく、血気盛んで快活な雰囲気を漂わせていたが、その目にはどこか焦りの色が見えた。
「戦はもうすぐ始まります。勝てば、この国は強くなる。先帝の果たせなかった夢を、我々の手で――」
房遺愛はそう語り、月蓮を見やることなく去っていった。
幕舎の中には、老いた李勣が座する。
白髪は増え、背は以前よりも小さく見えたが、その目の奥にはまだ炎が宿っていた。
「久しいな、月蓮殿。」
「お変わりなく――とは申しません。老いましたね。」
「老いたとも。老いたが、まだやることがある。」
李勣の声は静かで、しかし芯が通っている。
月蓮は懐から書状を取り出し、両手で差し出した。
「先帝から預かったものです。」
李勣は目を閉じ、一呼吸置いてそれを受け取ると火灯の下で開く。
紙の上には、簡潔な筆跡でこう記されていた。
『戦を忘れるな。勝つことに溺れるな。民を守れ。それが唐の剣であるべきだ。』
李勣の手がわずかに震えた。
それは老いのためか、感情のためか、月蓮には分からなかった。
「先帝らしい言葉だ。」
李勣は苦笑し書状を胸に当て、
「高宗陛下は、まだお若い。戦の重さを知らぬ。房玄齢の息子らも、勝利を栄誉と信じている。それはそれでよいのだ。だが、その勝利がどれほどの犠牲の上に築かれるものかを、知る者も必要だ。」
「だから、あなたがここにいるのですね。」
「ああ。」
李勣は幕舎の外、北の空を見つめた。
そこにはまだ雲が垂れ込み、雪が降り残っている。
「三代にわたり続いたこの遠征が、果たして何をもたらすのか。先帝は生前、『勝たぬ戦より、守る治を』と言われていた。だが、この国は勝つことを欲している。」
その言葉を聞きながら、月蓮は静かに息を吐いた。
勝つことは目的ではなく、守るための手段であるはずだった。
だが今、戦は勝つこと自体が目的となろうとしている。
月蓮の視線の先で、兵たちが雪を踏みしめながら訓練を続けていた。
若い兵士の瞳は、房遺愛と同じように光っていた。
その光の中に、彼らは何を映しているのだろうか。
李勣はふと笑みを浮かべ、
「月蓮殿。見届けてくれるか。この戦の行く末を。」
「ええ。それが私の務めですから。」
月蓮は答え、雪の匂いが残る冷たい空気を吸い込んだ。
かつての戦場のように、血と涙と鉄の匂いが今ここにはない。
だが、それがもうすぐ訪れることを、二人は知っていた。
そして雪は再び、北の空から降り始めていた。
雪に沈む地

雪の降る音がする――そう錯覚するほど、戦場は静かだ。
高句麗遠征は始まった。
唐の旗が凍てつく風に翻り、長い行軍の列が雪原を横切っていく。
太鼓も角笛も鳴り響かず、兵たちはただ吐く息を白くしながら前へ進んでいた。
李勣の陣の中で、月蓮はひとり冷たい風の匂いを嗅いでいる。
雪が降りしきる中で立ち尽くす兵たちの目は、どこか虚ろで、どこか必死で、同時に戦を知らぬ者特有の輝きも帯びていた。
彼女の耳には先帝の声が、雪の音に混じって聞こえる気がした。
「勝利とは、民のためでなくてはならぬ。」
あの声はもう、どこにも存在しないはずなのに。
「――唐の者か?」
その声に振り向くと、雪を纏った若い男が立っていた。
顔は血と泥で汚れていたが、その目には不思議な光がある。
高句麗の衣の残骸を纏ったその男は、捕虜となり、唐の陣に引き立てられたところだった。
「あなたは?」
「名乗る名はない。ただ私の国は燃え、家は失われた。それだけだ。」
月蓮は兵に一礼し、捕虜の若者の縄を緩めて座らせた。
火桶の灯りが雪を赤く照らし、その赤は夜の雪景色に溶けていく。
「どうしてここに来たのです?」
「唐が攻めてきたからだ。家族を守ろうとした。だが私には何もできなかった。私がいたから家は焼かれ、村は滅んだのかもしれない。」
彼の声は冷たく、けれど震えていた。
「あなたは、この戦をどう思う?」
彼は月蓮は問われることを、予期していなかったのかもしれない。
だが、その問いは彼女自身が何度も自分に問い続けてきたものだった。
「この戦は……遠い昔、私の父の時代から始まっていたのです。」
「父の時代?」
「私は隋の皇女でした。」
若者の目が大きく見開かれた。
「隋……あの、国を滅ぼした者たちの一族か。」
「ええ。」
「ならば、あなたは私の敵だ。」
「そうでしょうね。」
その言葉のあと、二人の間に雪の音だけが残った。
月蓮は雪を掬い、掌の上で溶かし、
「けれど、私は先帝の治世を見てきました。先帝は勝つことより、どう勝つかを重んじていた。戦のための戦を望まず、民のための治世を築こうとしていたのです。」
「だが、その先帝ももういない。」
若者の声は小さく、かすれていた。
「今残っているのは、あなたたちが欲する勝利だけだ。」
「……かもしれないですね。」
その通りだった。
先帝はもういない。
戦を“道”と考える者たちは去り、戦を“目的”とする者たちが国を動かしている。
それでも――
「あなたは生きなさい。」
「生きろと言うのか?この雪の中で、家もなく、帰る国もなく、生きろと?」
「ええ。それでも生きるべきです。」
「なぜだ。」
月蓮は答えなかった。
答える言葉を持たなかったのではなく、答えを言葉にすることが恐ろしかったからだ。
生きている限り、理想は捨てずにいられる。
その想いは言葉にした瞬間、薄くなってしまう気がした。
「あなたは、生きているだけでいい。」
それがやっとの言葉だった。
若者は笑ったのか泣いたのか、顔を覆った手の奥で震えていた。
雪は止む気配を見せず、夜の中でしんしんと降り積もっていく。
その夜、月蓮は仮設の幕舎で眠りにつけずにいた。
火桶の灯が揺れ、先帝の言葉が胸の奥で繰り返される。
「戦は勝つためにあるのではない。守るためにあるのだ。」
だが今、雪の大地に刻まれるのは血の跡と敗者の嘆きだけだ。
遠く、凍てつく空の下で狼が吠える声がした。
雪はすべてを隠しながら、それでも冷たい静寂の中で降り続けていた。
そして夜が明けると、唐の軍は再び歩みを進める。
どこまでも白い雪原を、血の赤がわずかに染めながら。
勝利なき凱旋

高句麗は陥落した。
唐の旗が平壌に掲げられたとき、空には雪が舞っていた。
降り積もる雪が血と灰を覆い隠し、街道には兵の足跡だけが残されていく。
「勝ったのだ。」
若い兵たちはそう叫び熱狂する。
房遺愛のような若き将も、勝利の凱旋を信じて笑顔を見せた。
唐の陣営では太鼓が打ち鳴らされ、勝鬨が夜空に響いた。
だがその中で李勣だけが、雪の中で立ち尽くし一言、
「勝利…か」
その声は雪に溶け、誰の耳にも届かない。
かつて李世民が願った勝利は、民を守るための勝利であった。
だがこの勝利は違う――勝つこと自体が目的とされ、勝利が政治の道具として使われていく未来を、李勣は感じていた。
その視線の先には、唐兵に囲まれて歩かされる高句麗の捕虜たちがいる。
その中に、月蓮が世話をしていた若い捕虜の姿もあった。
彼は雪の中で顔を上げ、唐の旗を睨みつけていた。
何も言わず、何も叫ばず、ただ静かに唇を引き結んで、
「生きなさい。」
月蓮の言葉が彼の胸に残っているのかは、わからなかった。
唐軍の帰還は、盛大に行われた。
勝利の凱旋式は長安の大通りを封鎖し、民衆が歓声を上げながら花びらを投げる。
「陛下万歳!」「唐の勝利だ!」
声が響くその場に月蓮は立つ。
黒い布で顔を覆い、誰にも気づかれぬようにただその場にいた。
勝利を喜ぶ民衆の中には、痩せた母親が幼子を抱えていた。
子は笑顔で父を探し、母はその頭を撫でながら目を伏せる。
この子の父は、この戦で生き残ったのだろうか、それとも雪の中に倒れたのだろうか。
月蓮はその問いの答えを知ることはできなかった。
太鼓が鳴り響き、金色の冠を戴いた高宗が輿に乗って姿を現す。
その隣には、深紅の衣を纏う武照――武則天が座していた。
二人の視線は前だけを見ていた。
勝利を讃える声に微笑み、手を振るその姿は威厳に満ちている。
「これが、勝利なの?……」
月蓮の唇からこぼれた言葉は、歓声にかき消された。
そのとき、月蓮の隣に立つ影があった。
李勣だ。
老いた将は勝利の凱旋式を遠くから見つめ、その目には涙が光る。
「李勣様……」
「月蓮殿。この勝利を、先帝は喜ばれると思うか?」
問いに答えることはできなかった。
月蓮は視線を武照に向けた。
深紅の衣が風に揺れ、その瞳は冷たくも美しい。
その瞳は勝利を映している。
だがその奥に、月蓮は何も見出せなかった。
李勣は静かに首を振った。
「先帝は、この勝利を“悼む”だろう。」
それが、戦場で血を見てきた老将の答えだ。
たしかにこの勝利は、唐にさらなる栄光をもたらしている。
高宗の威信は高まり、武照の権勢は強まった。
房遺愛のような若き将は武功を重ね、さらなる出世を夢見た。
だがその勝利がもたらしたのは、本当に太宗が望んだ未来だったのだろうか。
雪はその日も降り続き、白い大地に影を落としていた。
凱旋式が終わった後、月蓮は郊外の小さな村を訪れた。
そこでは民が小さな祠を作り、香を焚きながら静かに手を合わせている。
「太宗様のような皇帝が、もう一度現れますように……」
老婆の震える声が風に乗って聞こえた。
月蓮は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
あの時、先帝の治世の中で笑っていた民たちの顔が蘇る。
理想は、まだここに残っている。
雪は静かに降り続き、祠の屋根を白く染めていた。
その雪の下で、月蓮は小さく頭を下げた。
声には出さず、唇だけで言葉を紡ぐ。
「ありがとうございました、先帝。」
その瞬間、空からひとひらの雪が月蓮の肩に落ち、すぐに溶けて消えた。
民の中に残る灯

凱旋式が過ぎ去った後の長安には、不思議な静けさがある。
人々は勝利の余韻を語り合い、商人は遠征から戻る兵たちに布や酒を売り、寺では戦で亡くなった者の冥福を祈る鐘が鳴り響いていた。
だがその街角のどこかで、先帝を悼む祈りが細々と続けられていることを知る者は少ない。
月蓮は小さな寺の縁側で、雪を眺めていた。
遠征の後、李勣に別れを告げ、唐の都に戻ってきたのだ。
李勣は帰還したその日、剣を置き鎧を解き静かに、
「私の戦は、もう終わった。」
老将の背は小さく見えるが、その背に宿る影は、先帝と共に歩んだ年月の重みで満ちていた。
寺の庭では、小さな灯明が揺れていた。
僧侶たちは勝利の報告を捧げる祈りを唱えていたが、月蓮はその声を遠く感じていた。
「先帝ならば、何と言ったのでしょうね。」
呟いた声が自分の耳に返ってくる。
戦は終わりこの勝利は、たしかに唐の国力をさらに高めただろう。
また武照は皇后として権力を固め、高宗は父の影に怯えることなく笑顔を見せるようになった。
房遺愛のような若き将たちは、さらなる栄達を夢見て剣を磨いている。
しかしその栄光の影で、何千もの命が雪に沈んだ。
その雪は静かに降り続けている。
月蓮は懐から小さな瓦片を取り出した。
それは隋の瓦であり、かつて都だった大興城の屋根を飾っていたものだ。
「父上、私はまだここにいます。」
小さくそう告げると、風が吹き、雪が瓦片の上に積もる。
その雪は、かつて先帝が語った理想を思い出させた。
「勝つことが目的になってはならぬ。勝つならば、民を守るために。」
その言葉は、今も胸の中で灯火のように揺れていた。
寺を出たとき、門前で小さな影が月蓮の前に立つ。
高句麗の捕虜だったあの若者だ。
彼は唐の旗の下で奴隷として扱われるはずだったが、いつの間にか姿を消し、消息を絶っていたはずだった。
「どうしてここに?」
月蓮の問いに、彼は答えなかった。
ただ、その手に小さな灯明を掲げている。
「私は、生きろと言われた。」
彼はそれだけを告げ、灯明を月蓮に差し出した。
その灯は小さく今にも消えそうだが、その光は雪の中で確かに瞬いていた。
月蓮は灯明を受け取り、その灯をじっと見つめ、
「生きてください。」
今度は月蓮がそう言った。
若者は頷き、雪の中に消えていく。
その背中は小さかったが、どこか誇り高く見えた。
その夜、月蓮は都を去る決意をした。
誰にも告げず、誰にも見送られず、ただ雪の中を歩いていった。
足跡は雪に覆われ、すぐに消えていく。
彼女の手には小さな灯明が握られている。
風が吹くたびに揺れる灯火。
それは今にも消えそうだったが、月蓮はその灯を両手で覆い、守り続けた。
長安の外れの丘に登ったとき、夜空には星が瞬いていた。
雪雲の切れ間から見える星々は、ただ冷たく美しい。
灯明の火が反射し、月蓮の瞳に揺れた。
「先帝……あなたの理想は、消えていません。」
言葉にはならなかったが、唇が確かにそう動いた。
遠くで狼が遠吠えをあげる。
雪がまた降り出し、灯明の炎に触れて小さな蒸気を立てた。
けれどその灯は、最後まで消えない。
月蓮はその灯を見つめながら、ゆっくりと歩き出した。
行き先は決めていない。
だがその歩みは、確かに次の時代へと繋がっていた。
雪は降り続けていた。
それは死者を悼む白であり、残された者の灯火を際立たせる静寂でもある。
完